劫火
「次のが来たぞ」
父親の言葉に、燐はまた表情を強張らせる。だが静かに周囲を見渡す。
その様子を見て、先ほどの攻撃が燐にとってトラウマにはならなかったのだと分かり、2人は安堵し、落胆した。
ダンジョンで死にかけたことで心が折れて冒険者をやめるものは多い。
燐がそうならず、冒険者としての階段を一歩進んだ我が子の成長を二人は喜んだ。
だが、冒険者を諦めなかったことを、2人は落胆した。
(何も聞こえない)
燐は耳を澄ますが、先ほどのような足音は聞こえなかった。
つまり、別のモンスターがいるということだ。
「上だな」
燐は彼方の言葉に従い、天井を見る。
そこには、青い小さな塊があった。
「スライム?」
「ああ。上から降ってきて呼吸器を塞がれると厄介だぞ。そういう時は冷静に核を握りつぶすんだ」
冒険者の豆知識を添えて、燐の疑問を肯定する。
「火に弱いが、ドロップ素材まで焼ける可能性があるからな」
そう言って、彼方は剣を振った。すると、スライムの核が砕け、球体を維持できなくなったスライムが液体となり降り注いできた。だがそれも、落下の途中で灰へと変わった。
モンスターは、核である魔石を砕かれれば灰となって消滅する。
だが消えずに落ちてきたものもあった。
彼方はそれを片手で掴んだ。
「おっ、『ステータス薬』だな。運がいい」
「運がいいと言っても、ドロップ率50%よ」
呆れたように凛音は肩を竦めた。
「ステータス薬って………」
「ステータスが見れるやつだな。使うか?」
差し出された薬瓶を見て、燐はドキリと胸を跳ねさせる。
ステータスを見るのは、燐がダンジョンに来た大きな理由の一つでもあるからだ。
いよいよその時が迫っていると知り、燐は緊張を露わにする。
「モンスターは近くにはいないから、使ってみな」
燐は凛音を見る。母も何も言わないと分かり、燐はステータス薬を受け取った。
彼方から差し出された紙を手に取り、父親が剣で指先に少しだけ傷をつける。
僅かな痛みの後、玉粒のような血が指先に生まれる。
それを紙に擦り付ける。赤い線が引かれ、その上から透明の薬を振りかける。
液体は、しみ込むように紙の中へと消えていった。
そして、紙に文字が浮かび上がる。燐の母国語、つまり日本語と燐でも分かる英語で構成された文字列だ。そこには、こう書かれていた。
States
Name:遠廻燐 Lv.0 Job
Ability
生命力:80 SP:0 MP:0
力:84 敏捷:100 器用:88
耐久:82 魔力:50 幸運:110
Job Skill:
Race Skill:
Unique Skill:
【
「これが、俺のステータス……」
アビリティ、つまり燐の基礎的な能力に特筆すべきものはない。
100が成人男性の基準値なので、燐のステータスは敏捷と幸運が少し高いぐらいのものだ。
MP、つまり魔力量はレベルが上がらなければ発現しないステータスなので、レベルを上げていない燐は当然0。そしてSP、スキルポイントと呼ばれるスキル使用の際に消費されるポイントも同様だ。
だが、目を引くのはユニークスキルの欄。
【右方の調律】。それが燐の右手に宿る力だった。
ダンジョンが発生した50年前から、この世界には極稀に、ユニークスキルと呼ばれる特別な力を持つ者が生まれる。
燐もまたその一人。燐の右手は、支配の力が宿っている。
だが、何ができるのかは燐にもよくわかってはいない。
今のところ、機械に触れれば、コンソールを弄らずに機械を操れるぐらいしか使い道は無い。だがこの力について分かっていることの一つに、生物にも有効であることがある。
この力は、燐にとってメリットよりもデメリットの方が大きいものだった。
だが桁外れに強力な力だと、燐の両親は太鼓判を出している。人からは疎まれているが、愛する両親が認めてくれた力だ。
―――誰かを幸せにする力よ
波の音の狭間に、そう母に言われた日を、燐は今でも覚えている。
だから燐は、冒険者となりこの力を人の役に立てたいと思っているのだ。
ユニークスキルの名前は知らなかったが、その能力に驚くものはない。
だが最後に付けくわえられた文面は、燐の意識を凍らせるのに十分なものだった。
―――種族レベルアップ時必要経験値10倍。
レベルには二つ存在する。それは種族レベルとジョブレベルだ。
種族レベルが上昇することで基礎ステータスは向上し、レベル10ごとにジョブ枠が一つ増える。最も重要な数字だという冒険者も多い。
対してジョブレベルは就いたジョブのレベルであり、基礎ステータスへの補正率の上昇や新スキルの開放などの影響がある。
こちらも重要ではあるが、身体能力や魔力量の上昇などの必須能力への影響は少ない。
種族レベルはモンスターを討伐することでしか得られない。つまり燐は、通常の冒険者と比べて10倍、いやもっと多くの量のモンスターを討伐するか、レベルが上の強敵と戦う必要があるのだ。
普通の冒険者では、レベルを10上げるのに一年ほどかかるのが平均だ。
―――では、自分は?
燐は頭の中の冷静な部分で計算をする。
10年?10レベル上げるのに10年、10年必死に戦って、初心者と同等になるんだ。
燐はその文字が意味することを理解し、顔色を蒼白に染めた。
「なんだよ、これ……」
それがきっかけだったように、心のどこかで自分が崩れる音がした。
座り込んだまま立ち上がる気力が失われていく。
これは、だめだ。心の奥で自分が叫んだ。
才能が無くて、心が折れて諦めるのなら納得は出来た。
モンスターの爪牙に切り刻まれるのなら、実力不足だと諦められた。
だけど、これは違う。
始まる前に、数字で叩きだされた。お前は先には進めないのだと、自分のスキルが伝えてくる。
悲痛な声が心を満たす。誰にも届かず、終わりを告げる鐘の音のように、反響した。
燐が絶望する側で、彼方と凛音は痛ましそうに我が子を見つめる。その瞳に驚きはない。
ただ黙って寄り添った。
それしかできないと、ただ静かにそうしていた。
「燐、行きましょう。モンスターが来るわ」
燐が座り込み、10分以上たったころ、凛音はモンスターの接近を捉えた。
凛音が燐の肩に手を添えて、立ち上がるように促す。脆いガラス細工に触れるような静かな感触は、ほろりと消えそうなほど儚くて、冷たかった。
与えられたことのない熱が、これが現実なのだと告げるようで、燐は力なく息を吐いた。
燐は黙って立ち上がって、父親の後について行った。
燐は何も喋らなかった。能面のような表情を張り付けて、ただ機械的に帰路を進む。
洞窟を進み、光の門をくぐり、大広間を歩く。行きに通った『冒険者』の道を歩む。
自分はもう二度と歩かないのだと、そんな声が心を叩く。
「帰りましょう。音々もそろそろ帰って来るから今日は外で食べようか」
帰りの車の中で、凛音は柔らかな声で燐に話しかける。父親の彼方は、別の車で来たためそれに乗って帰っている。車内は二人だけだ。
後部座席に座る燐は、自分が慰められているのだと、母親の言葉を反復して理解する。
「何で、慰めるの」
零れた言葉は凪いでいた。決壊する前の心が、小さな意地を張らせた。
「そんなに、だめなの?もう無理なぐらい、酷いことなの?」
違うと言って欲しかった。無理なことは分かっているから、せめて母にだけは否定してほしかった。孤独な少年は、母の隣に居場所を求めた。
「…………それは――ッ」
だが、いい淀む凛音の言葉が、燐が冒険者になれないと突きつけた。
それが燐の夢を終わらせた。
「な――で、何でだよっ!」
瞳から涙がこぼれ落ちる。次から次へと滴る雫は、燐の頬を熱く染める。
ダンジョンの中から耐えていた全てが、母の言葉で決壊した。
「人を幸せにできる力って言ったじゃんかっっ!だから今まで頑張ってきたのに!」
涙を振りまき吠える。
だから、今まで化け物を見るように燐に接するクラスメイトにも耐えてきた。
いつか両親のような冒険者になって認められたいという思いで頑張ってきた。
もうそんな未来は無いのだと、燐は知った。
「何でッ、こんな手で生まれたくなかった………っ」
燐は右手を抱えて蹲る。
―――あなたのそれは才能よ。
友達に嫌われて泣いて帰ってきた燐を連れ出した凛音は、夕焼けの海でそう言って、黙って頭を撫でてくれた。
だけど今はその言葉も信じられなくなっていた。
だから今まで思っていても、言わないと決めていた言葉が漏れ出た。
「ごめんなさい」
凛音はそれだけを伝えた。
それはいろんな意味の謝罪だった。
燐がユニークスキルを持って生まれたことは生後まもなく分かっていた。その能力もデメリットも専門の調査機関を使い調べていた。
だけど凛音はそれを燐には伝えられなかった。
幼い頃は、大きな才能が燐の人格を歪めないか心配で隠していた。
そしてそれは、燐が冒険者になりたいと、満面の笑みで伝えてきたときにますます伝えられなくなった。
あなたの夢は不可能なのだと、学校でユニークスキルのことがバレて友人を無くし、落ち込んでいた燐に伝えることは、凛音には、彼方には出来なかった。
いずれ冒険者の夢は諦めるかもしれない。そうなったときに伝えようと、甘美で都合のいい可能性に縋り続けた。だけどそんな日は来なかった。
少年は抱き続けた。大事ながらくたを宝箱にしまい込むように、その夢だけを大切に守ってきた。
燐が一人、ダンジョンに行く日を楽しみにしていた裏で、凛音たちは静かに覚悟を決めていた。燐に嫌われ、恨まれ、親と子でいられなく覚悟を。
それでも、自身の子が絶望する姿は、凛音の心を切り裂いた。
「普通に生んであげられなくて、ごめんなさい」
ハンドルを握る手が、真っ白になる。
小さな声で伝えられた言葉に、燐は顔を上げる。
ミラー越しに、凛音は燐と目が合った。
涙で顔は濡れて、揺れる瞳は見捨てられたように寂しく歪んでいた。
凛音はまた間違えたのだと、一度も見たことのない我が子の表情で悟った。
□□□
それから、車内では会話は無かった。燐の涙は枯れ、ただ黙って座っていた。
車が家に付く。父親は既に帰っていて、車庫の前で二人を待っていた。
車が停まってからシートベルトを外して外に出る。
いつもの習慣だったが、2人の関係はいつもとは違っていた。
車を降りる。父が近づく。泣きはらした後のある燐の顔と沈痛な面持ちの母を見て、車内で何があったのか悟り、無表情を僅かに歪めた。
それは、自分だけが先に帰り、凛音に辛いことを押し付けてしまったことを悔いていた。
それ以上に、今まで燐に真実を隠していたことを、強く悔やんでいた。
「とりあえず、中に入ろう、な」
彼方は燐に手を差し出す。どんな表情をすればいいのか分からないと、引き攣った表情だったが、父親としての愛を注ぎ、子に歩み寄った。
差し出した手が小さく震える。
ダンジョンでは大きく見えた父の姿が、燐には誰よりも小さく見えた。
不安に押し殺されそうになっている父の姿そこにはあった。
「燐、その……」
凛音も、燐に言葉を掛けようと口を開いて、閉ざした。何も言う資格は無いと自分を責めるように。
燐は二人に背を向けた。
「外にいるよ……」
長くしゃべると、言いたくないことも言ってしまいそうでそれだけ告げて歩き出した。
2人は何も言わなかった。どんな顔をしていたのかも燐は知らない。
そのまま家の敷地を出て、外の壁によりかかった。
本当は、どこかに行ってしまいたかった。自分を誰も知らない場所で、何も思い出さない土地で生きたいと、燐は強く思っていた。
だけど自分が今ここからいなくなれば、両親に心配をかけると分かっていた。
最後の傷ついた両親の顔を見てまで、そんなことが出来るほど燐は無情では無かった。
壁に背を預け、座り込む。落ち着くように大きく息を吸った。
「酷いこと言ったな…………」
母も父も自分を愛してくれていると知っている。何も憎くて今日までステータスのことを黙っていたわけでない。
自分が『こう』なのも二人のせいじゃない。
「戻ったら謝ろう」
燐は、人のことを思いやれる子どもだった。
今はまだ、気持ちの整理がつかないけど、家に戻ればまた家族になろうと、燐は決めた。
だけど、戻る勇気も出ない。そんな時、燐の胸元から何かが出てきた。
手のひらサイズのそれは、ダンジョンで燐に宿った妖精だった。
「宿木の調整で寝ちゃってたわ!宿主の不快な感情でお目覚めよ、燐!」
起こったように空中で地団太を踏む妖精アリスは、燐の精神状態を感じ取ってしまったのか、少しご立腹だった。
「何で名前……」
たいして気にはならなかったが、憂鬱な気分を忘れたくて、会話を続けようとする。
そんな燐の心中には気づかず、アリスは自慢げに薄い胸を張った。
「ワタシは妖精だから、ステータスを見れるのよ!アンタの絶望的なステータスもね!」
気を紛らわせようと話しかけて、核心をぶち抜かれた燐は不機嫌な表情となった。
「何で絶望的なステータスの奴に宿るんだ………」
「面白そうだからっ!人間なんて初めて見たし、びっくりよ、ワタシ!」
能天気で明け透けに笑うアリスの表情に、燐はほんの小さく笑った。
アリスの無邪気な言動と笑みは、向日葵のように明るく陽光のように燐の曇った心を照らす。
「俺、」
小さく柔らかな声で、燐は言葉を紡ぐ。
「……なぁに?」
「俺、小さい時から仲いい子がいてさ。そいつと一緒に冒険者になろうって約束したんだ。そいつは一足先に冒険者になって、活躍してるんだけど、俺は父さんと母さんが許してくれなくて、冒険者になれなくて、いつか、いつか、一緒に、パーティーを組もうってっ、約束したのにッ……」
言葉はやがて単語になって、嗚咽に変わる。
大粒の涙を潤む瞳から溢す燐の肩に、アリスは寄り添う。
涙を流して、流して、流して、滲む視界が戻ってきたとき、最後に小さく言葉を加えた。
「だから、俺は冒険者になれない。それでもいいなら、その……」
「友達になりましょう、燐!ワタシがいればオールオッケー!最高の人生よ!」
あまりに無邪気で、元気な彼女に、燐は思わず苦笑を漏らしてしまう。
「家、帰るよ」
燐は立ち上がり、服に付いたアスファルトの欠片や砂ぼこりを払う。
アリスは相変わらず笑顔だった。帰ったら、何から言おうかと燐は考えながら、それを見ていた。
そして、アリスの表情が真っ赤に染まった。
鮮烈な赤。血よりは薄くて命よりも真っ赤な獄炎の色だった。
燐はなぜか音の消えた世界で気付く。
赤いのはアリスの顔だけではなく、目に映る全てがだと。
ごうごう、と背後で何かが揺れるのを感じた。
そして、燐は背中から巨大な衝撃を受けた。鉄球に殴り飛ばされたような息も止まるほど衝撃だった。
何が起こったのかすらわからずに、燐は意識を失った。
□□□
燐が家を出て壁に隠れて見えなくなる。
それを見た凛音は小さく息を漏らした。もう二度とあの子は戻ってこないのではないかという恐怖に突き動かされて出た悲鳴だった。
「俺たちは家に入っていよう。ここにいたら、燐が帰ってきづらいから」
「―――ッ、ええ」
彼方もまた、平常心ではいられなかったが、それでもまだこれからを見据えていた。
凛音は彼方に連れられて家に入る。そして玄関で泣き崩れた。
「ごめんなさいっ…………!私、あの子に酷いことを言ったわ……」
車内で燐に向かっていた『ごめんなさい』という言葉。それは、燐の絶望に耐え切れずに零れてしまった凛音の弱音だ。
絶対に燐には聞かせないと決めていたはずの言葉だった。
燐に何を言われ、何を思われようと耐えようと覚悟していたが、最後に耐えられなかった。
凛音が何を言ったのか、彼方は知らない。だが強く凛音の肩を抱きしめた。
「帰ってきたら、謝ろう。また俺と凛音と燐と音々で笑い合えるように俺も頑張るから」
「………ええ。私も―――、ッ!?」
凛音が何を言おうとしたのかは分からない。ただ、灼熱に染まる世界が、幸せを焼いたのだ。
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