第38話 無償の愛のために

 五十嵐はドン引きするみたいな低い声をあげた。まぁ常識的に考えればそういう反応になるよね。テレビではおしとやかな美人で売っていて、私には人懐っこい犬みたいに抱き着いてくる。私だってそれを本人から聞いた時はドン引きだったよ。


「学生の頃、天宮って外見がいいからよく告白されてたんだ。でもずーっと断ってたから理由が気になって。そしたら『人間は好きにならない』って言われた。『芸術にしか恋はしない』って。課外学習で美術館に行った時も、やけに息が荒かったし」


 私が少女漫画読んでるのをみたときも「なんで唇をくっつけただけなのに顔を赤らめてるの?」と不思議そうにしていた。「素晴らしい芸術を目撃したわけでもないのに」なんて心底真面目な声で。


 でも五十嵐は疑っているみたいだ。


「牧野さんのために、絵を描けなくなるほどに頑張ったんですよ。自分の一番大切なものなのに。価値観が変わったと考える方が自然です」

「まぁ確かに。……最初は私の絵ばかりに興味示してたけど、高校生になってからは結構私にも関心持ってくれてた気がする」

「ほら。やっぱり信じられませんよ」

「でも話題なんてほとんど絵のことばかりだよ?」


 私たちは親友と言い表すこともできるけれど、ライバル、あるいは戦友という呼び名の方がよほど適切に思える。でも五十嵐は心細そうな顔で寝返りをうって天井をみつめる。


「私よりも天宮さんの方が相応しいんじゃないかって気持ちは薄れません。牧野さんだってもしも天宮さんに告白されたら受け入れちゃうんじゃないですか?」

「浮気なんてするわけない。そんなに心配なら天宮の前でキスしてあげるよ。滅茶苦茶恥ずかしいけど……。天宮が何を思ってたって五十嵐を好きって気持ちは変わらない」


 27歳にして五十嵐に初恋をしたのだ。大切にしたいって思ってる。浮気とかあり得ないし、五十嵐が悲しむ顔だってみたくない。


 でも感情の強さではきっと天宮への友情には勝てない。なにせ、15年の付き合いだ。しかも5年もかけて、あれだけ愛した絵を犠牲にしてでも私を立ち上がらせてくれた。好ましく思わないはずがないのだ。


 でもだからってそれが恋愛感情に変わることはない。


「……分かりました。でも私が望んだらいつでもキスしてください。約束ですよ? ずっと私の牧野さんでいてください。ずっと私のそばにいてください。じゃないと私……」


 目を潤ませてしまうから、ぎゅっと抱きしめてあげる。


「ずっとそばにいるよ。五十嵐に相応しい私になれるように絵だって頑張る」

「……嬉しいです」


 やっぱり天宮を抱きしめたときとは全然違う。体が熱くなって胸もドキドキするのだ。キスだってしたいし、その先だって本当はしてしまいたいと思っている。


「……好きです。大好きです。今すぐにキス、して欲しいです」


 うるんだ瞳で請われるから、心臓が騒ぐ。頬に手を当てると、餌をねだる小鳥みたいに可愛く私の唇をみつめてくる。本能に振り回されてしまわないよう、深呼吸をして息を整えた。


「目、閉じて」

「……はい」


 顔を真っ赤にして瞼を閉じた。まじまじと見つめてやっぱり綺麗だなと思う。全部私のものにしてしまいたいのだ。


 あらゆる場所に触れたいし、唇だって色々な場所に落としたい。快楽に悶える顔とか、私の知らないえっちな五十嵐をもっとみせて欲しい。でもそんなことをすれば、五十嵐の不安という油に火を注ぐことになりかねない。


 えっちなんてしなくても、私の気持ちは絶対に五十嵐から離れない。そのことを分かって欲しいのだ。


「大好きだよ」

「私もです」


 可愛らしく微笑んでくれるから気遣いなんてできなくなる。興奮のまま、覆いかぶさるような姿勢で唇を重ねる。気を抜けば手が五十嵐の胸に伸びてしまいそうになるから、理性で抑えた。そっと伸びてきた舌が物欲しそうに唇をつつくから、軽く開いて私からも舌を絡める。


 訳が分からなくなるほど気持ち良かった。大好きな人と愛し合えてるんだって充足感に満たされて、下腹部が熱くなる。息も忘れて肺が苦しくなっても離れられない。汗の雫が五十嵐の額に流れ落ちていく。ひたすらに五十嵐の唇を貪る。


「まきのさ……」


 けど苦し気な声で背中を叩かれて、ようやく正気に戻った。


「ごめんっ」


 大慌てで体を離すと、苦しそうに息を荒らげていた。でも表情はどこまでも幸せそうだった。汗の粒が頬を流れていく。とろけてしまったみたいな瞳が私をみつめる。五十嵐から目が離せない。無防備に足を広げた煽情的な姿勢で脱力してしまっているのだ。


 もういっそ、このまましてしまってもいいのではないか。本能がささやく。


「……いいんですよ?」

 

 私の気持ちの全てを受け入れたみたいな甘い笑顔だった。


 ごくりとつばを飲んでしまう。でもまだだめだ。五十嵐が本当に私を信じてくれたのなら、してもいい。というかしたい。でも今の五十嵐は私を疑っている。愛されるに値しないと思い込んでいる。体を愛して妙な勘違いをされるのは嫌なのだ。


 五十嵐に覆いかぶさるのをやめて、ベッドから立ち上がる。全身が汗まみれになっていてインナーが肌に張り付いていた。きっと五十嵐もべとべとなんだろう。いつもよりも匂いが強かったし。……そのせいで理性だって危うく失いかけてしまった。


 恥ずかしくて振り返れずにいると、背後にいる五十嵐のお腹から轟音が聞こえてきた。緊張が一気にほどけて、思わず笑ってしまった。


 振り返ると、五十嵐は体を起こして恥ずかしそうにしていた。


「お腹空いたんだね。すぐにご飯作ってくるから」

「……う。なんでこんな時にっ……」


 恨めしそうに自分のお腹を押さえている。甘い雰囲気だったもんね。胸焼けしそうなほどだった。でも慣れない空気は心身が強張ってしまうのだ。恋人の空気よりは友達の空気の方が気楽でいい。


「五十嵐は大食いだもんね。今日も沢山作ってあげるから待ってて。あ、でもその間にお風呂洗ってくれると嬉しいかな」

「……分かりました」


 しょんぼりと肩を落としてリビングを出ていく。これからも五十嵐の攻撃は続くのだろう。でも耐えなければならない。五十嵐にはありのままの自分を好きになって欲しいのだ。ただそこにいるだけで愛してもらえるんだって、信じて欲しいのだ。

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