自己肯定のパラドックス

第15話 キスさせてくれるんですか?

 カーテンから差してきた日の光で目を覚ます。もう起きているのか隣に五十嵐はいなかった。


「五十嵐」


 ベッドを降りてから呼びかけるも返事はない。画材置き場を覗くも五十嵐の姿はない。洗面所にもいない。脱衣所にもいない。そもそも玄関に五十嵐の運動靴がないのだ。


 なんだか嫌な予感がする。パジャマのまま靴入れから運動靴を取り出した。


 でもその時、鍵が外から開かれた。


 扉が開くと朝の澄み切った空を背景に、制服姿の五十嵐が廊下に立っていた。イーゼルを背負っていて、画材が入っていると思われる大きな袋も手にしている。全身から一気に力が抜けた。ぼさぼさの頭を掻きながらほっと息を吐く。


「よかった。どこ行ってたの?」


 五十嵐は申し訳なさそうに眉をひそめていた。


「頑張って起きて画材を取りに帰ってました。お父さん起きるのが遅いので早朝ならいけるかなって。ずっと牧野さんのばかり使わせてもらうわけにもいきませんし」

「……それはそうだけど」


 顔をしかめながら手を差し出すと、画材の入った袋を私に手渡した。そのまま二人でリビングに入る。


「あらかじめ言っておいてよ。心配だったんだから」

「ごめんなさい。鍵、お返ししますね」


 鍵か。合鍵とか渡しておくべきなのかな? 平日なんて家に帰ってくる時間が全然違う。また昨日みたいに待たせるわけにはいかない。


 壁際の棚を開いて、その中から合鍵を取り出した。それを五十嵐に差し出すけれど、意図せず仕草がぶっきらぼうになる。


 一瞬だけど五十嵐がいなくなった不安が強すぎて、その余波で未だに感情が乱れているのだと思う。自覚していても抑え込めないほどには大切に思っているのだ。


「そんな怖い顔しないでくださいよ。いなくならないですから」

「……約束だよ」


 顔をこわばらせながら小指を差し出すと、五十嵐はほっそりとした小指を絡めてくれた。爪の形まで綺麗で見惚れてしまう。


「それでこの鍵はなんなんですか?」

「合鍵」

「えっ!?」


 オーバーリアクションにのけぞった。そんなにびっくりさせるような事だろうか。一緒に住んでるんだからこれくらい当然でしょ。

 

「……大切にしますね」


 頬を赤らめてぎゅっと鍵を握り締めていた。当然だ。鍵を無くしたら空き巣に入られてしまうかもしれない。ともかく、画材も持ってきてくれたことだし、今日の予定は決まったも同然だ。


「五十嵐。今日は二人で外に絵を描きに行こう」


 昨日見た夢を思い出す。罪悪感というか、情けなさというか。とにかく絵を描かなければ落ち着かない気分だったのだ。


「絵画コンクールの要綱をみるに、市内の景色なら何でもいいんでしょ? いい場所知ってるんだ。外だから寒いかもだけど」

「晴れてますし、気温もいつもより高くなるみたいですよ。絶好のデート日和です」

「デート?」


 私たちに相応しくない言葉が聞こえてきたから、首をかしげる。


「昨日伝えたと思ったのですが。お礼ですよ。付き合ったらキスさせてくれるんですよね? それなら私、牧野さんのこと惚れさせるつもりです」


 なんか急にとんでもないこと言い始めたよこの子。自分のキスに無限の価値があると信じ込んでいるみたいな自信満々な顔だ。まぁ実際そうなんだけど。五十嵐のファーストキスの価値はお金では計れない。


「……えっと、五十嵐ってそういう性格だったっけ」

「人は気分によって性格を変えます。ずっとツンデレな人はいないですし、ずっと消極的な人もいませんよ。そんなのは虚構の中だけです」


 恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、じりじりとにじり寄ってきた。後ろに引こうとするも、部屋の壁に阻まれる。動けずにいると、突然顔の真横に腕が伸びてきてびっくりする。


 胸がうるさい。鼻の触れ合ってしまいそうな距離に、この世で一番綺麗な顔があるのだ。まつ毛の長さとか、肌のきめ細やかさとか、そんなのに意識を向ける余裕はない。状況すらも上手く飲み込めない。


 思考が停止して体も固まってしまう。五十嵐はじっと私をみつめていて、少しずつ距離を縮めつつある。吐息が着実に近づいてくる。本当にキス、されてしまうのだろうか。反射的に目を閉じる。


 けど、いつまで経っても五十嵐の唇は私に触れなかった。


「……えっと。そのっ……」


 目が合うと、跳ねるように私から距離を取った。目も泳いでいるし、まるで鼓動に耐えかねたみたいに胸に手を当てていた。なんだかなおさら顔が熱くなる。ため息をついて五十嵐の頭を撫でる。


「壁ドンなんてもともと意識してないと意味ないでしょ」

「えっ。そうなんですか?」

「そうだよ。それにする側が真っ赤になってどうするの。目の前で恥ずかしがられたら、むしろ冷静になるよ。吊り橋効果もなにもあったもんじゃない」


 私だって現実の恋愛とか知らないけど、同僚がいうにはそうらしい。肩をすくめると、五十嵐はうつむいたまま私の手を握ってきた。


「それは、その、牧野さんが目を閉じるから。まるで、キスしてもいいよって言ってるみたいだったから、びっくりして何も考えられなくなって」


 可愛い上目遣いが私をみつめた。


「……どうして目を閉じてくれたんですか?」


 期待するみたいな声が鼓膜を揺らす。言葉に詰まる。反射的に目を閉じてしまったのだ。まるで五十嵐のキスを本能が受け入れたみたいだった。嫌なら避けただろう。でも私はそうしなかった。


 一つの可能性が思い浮かぶ。でもやっぱり私と五十嵐では色々と違いすぎる。


「……からかいたかったからだよ。どうせ五十嵐にはできないだろうって思って」


 小さく笑顔を作ると五十嵐は不服そうに頬を膨らませた。


「……酷い人です。女子高生の純情を弄ぶなんて」

「純情って。別に私のことが好きとかじゃないでしょ?」

「……牧野さんは私のこと、好きじゃないんですよね?」

「そういう意味では好きじゃないよ。流石に十歳も離れてるとね」


 五十嵐は寂しそうな顔になった。そのまま握った手を離す。これで少しは落ち着いてくれるといいんだけど。でもそんな私の期待は数秒後に打ち破られた。


「だからこそ、今日はデートするんです。私を好きになってもらうために」

「お礼のためなんでしょ? そもそもキスのためだけに私を惚れさせるって前提から間違ってる。キスしたらポイ捨てする気なんでしょ」


 冗談めかして肩をすくめてみるけれど、五十嵐の視線は真剣だ。


「ポイ捨てなんてしませんよ。責任は取ります」


 冗談というわけでもなさそうで顔が熱を持つ。心臓だってうるさい。


 でもそんなの受け入れられるわけがない。私なんかと付き合っても五十嵐のためにならない。お礼のためにキスをする。そのために好きでもない私を好きなふりをして、しかも本当につき合い続けてしまう。


 間違いが多すぎてどこから指摘すればいいのか分からなくなるくらいだ。


「そんなのもっとだめだよ。言ったと思うけど、自分を大切にして欲しい。好きになって欲しいんだよ。その上で、まぁあり得ないとは思うけど、五十嵐が本当に私を好きになって、その延長線上でキスしたいって思ったなら、まぁ、考えてあげないこともない」

「それじゃあ今『好きになった』って言ったらキスさせてくれるんですか?」


 五十嵐は壁に寄りかかるのをやめて、すぐそばまでやって来る。期待するみたいな可愛い上目遣いが私をみつめた。

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