第二章 燃え尽きた太陽と焼け落ちた翼

もう一つの幕開け

第13話 芽生え

 絵を描き終えたあと交互にお風呂に入った。それから二人でソファに座る。手を繋いだまま、五十嵐の提案で配信サービスの映画を見た。神に愛された音楽の天才と、神に愛されなかった秀才の愛憎をテーマにした40年前の古い映画だった。


 映画が終わった後のしみじみとした空気で、隣に座る五十嵐に声をかける。


「好きなだけ泊まればいいよ。でも一応連絡はしておいたら?」

「もうしてあります。既読ついてるのに何も言ってくれませんが」


 五十嵐匠一。彼は稀代の画家だ。親としては失格かもしれないけど、画家として五十嵐に向き合うことはできると思う。ただ無様に才能の前にひれ伏すような凡骨ではない。何様だって思われそうだけど、信じたいのだ。五十嵐のためにも。


 家族に憎まれたままなんて、きっと辛いだろうから。


 時間が時間だし眠くなってきた。私があくびをすると、五十嵐もつられたのか口に手を当てながらあくびをした。目が合うから、私はにやにやした。五十嵐は顔を赤らめて恥ずかしそうに視線をそらしている。


「仲のいい人のあくびほど、うつりやすいらしいですよ」

「それならきっと私も五十嵐のあくびにつられちゃうんだろうね」


 よしよしと頭を撫でてあげると気持ちよさそうに目を閉じた。じっと撫でられるがままになっている。可愛いからいつまでも撫でていたい気分だけど、流石に眠気が酷い。もう一度二人であくびをしてから、洗面所で歯を磨く。


「あの、牧野さん」

「なに?」


 頬を赤らめながら、ちらちらと横目でみてくる。


「一緒に絵を描いたじゃないですか。あの時の愛してるって、本気ですか?」

「うん。五十嵐の顔、私は愛してるよ」


 五十嵐が自分を否定するなら、私は五十嵐を無限に肯定してあげるつもりだ。もちろんお世辞とかじゃなくて、それだけの美を五十嵐は有している。


「……だったら顔じゃなくて、私のことはどうですか?」


 濡れた瞳で上目遣いにみつめてきた。しゃかしゃか歯を磨きながら返答した。


「普通に友達として好きだよ」

「……」


 どうしてか五十嵐は肩を落としていた。


「どうしたの?」

「別になんでもないです。友達かぁって思っただけで」

「残念だけど親友と呼ぶにはまだあまり五十嵐のこと知らないからね……」

「……それもそうですね。まだ出会って2日ですし」


 そっか。まだたったの2日なんだ。これまでずっと同じような毎日を繰り返していた。新鮮で密度の高い時間だったから、体感では1週間くらい経ったような気でいたのだ。


 隣では五十嵐が微笑んでいる。悪くない2日間だったと心から思う。


 歯を磨いたあとリビングに戻ってくると、時間は二十四時を過ぎていた。明日の土曜日は珍しいことに休みだ。とはいえ夜更かしは体に響く。若いころはいいけど、アラサーにもなると結構きつい。


「今日はベッド使う? 流石に連日ソファはきついでしょ」

「申し訳ないです。牧野さんをソファで寝させるのは」


 肩をすくめてお茶の入ったコップに手を伸ばす五十嵐。綺麗な首のラインを晒しながら顔をあげて、喉元を小さく波打たせている。その所作一つ一つに見惚れてしまう。


「……どうかしました?」

「気付いてないのかなって。二人でベッドで寝る方法があるってこと」

「そんなのあるんですか? でもベッドは一つしかないですよね……?」


 唸り声をあげるほどに悩んでいる。1+1の答えと同じくらい単純なのに。


「いや、一緒に寝ればそれで良くない?」

「ごほっ。げほっ。おえっ……」


 突然激しくむせてしまった。


「大丈夫!?」


 慌てて背中を撫でてあげる。しばらくして落ち着いてくると、私はお返しとばかりにニヤニヤして五十嵐をからかうことにした。


「もしかして五十嵐って惚れっぽい?」


 まぁそんなわけないけど。私みたいな凡人を意識してるわけがない。きっと意味なんてなくて、偶然このタイミングでむせただけなのだろう。


「びっくりしただけですよ! 急に距離感無視した発言してくるから……。これまでろくにモテたこともない癖に自意識過剰すぎますっ!」


 激しくむせたせいで五十嵐の顔は真っ赤だ。よほど私のからかいが気にくわなかったのか、語気だって妙に強い。


「ただの冗談でしょ。そもそも女同士だし私平凡未満なんだし、天才の五十嵐が私なんかを好きになるわけない」

「……あまりいい気はしません。そうやって自分を貶すのは」


 嫌に真剣な瞳で射抜いてくる。でもそんなこと五十嵐には言われたくない。


「五十嵐こそもっと自分を大事にしなよ? 私は五十嵐のこと大切に思ってる。もしもいなくなったりなんかしたら、どうなるか分からないんだからね?」

「その節は、ありがとうございました」


 微笑みながら五十嵐は立ち上がり、ベッドに腰かけた。ごろんと横になって、その姿勢のまま微笑む。私も五十嵐の横に寝転んで、じっと間近からみつめる。肌がみてるだけですべすべなのが伝わってくる。というか匂いからして違う。


 着ているのは私のパジャマなはずなのに、どうしてかふわりと甘い。柔軟剤とは違う匂いがするのだ。それにしてもやっぱり肌が綺麗だ。


 私の手は自ずと五十嵐の頬に伸びていた。指先でつついてみたり、そっと撫でてみたりする。私も昔はこうだったんだけどな、なんて哀愁に浸りながら、ぷにぷにと指先でつまんでみる。この五年間、無駄に年だけ取ってしまった。


「……あの、なにしてるんですか」


 気付けばほんのりと五十嵐の顔が赤くなっている。


「若さに嫉妬してる。いいよね。女子高生って」

「さっきから距離感おかしいですよ。付き合ってるわけでもないのに、人の体こんなべたべた触るものじゃないです。愛してるとかいうのもおかしいです」


 私の手首をがっしりつかんだかと思えば、ぐいっと顔を近づけてきた。瞳はどこか艶やかで、表情だって有無を言わせない凄味がある。まるでキスしようとしてるみたいな距離だ。なんだか急に恥ずかしくなった。顔が熱い。


「ご、ごめん。眠気で判断力が低下してたというか」

「……なるほど。判断力が低下すれば私の体を触りたくなるんですね」

「えっ」

 

 相変わらず五十嵐の考えることは分からない。色っぽい目線で含みのある言葉を聞かされて、嫌に心臓がドキドキしてくる。


 反応できずにいると、五十嵐は顔を離してため息をついた。


「普通、出会って2日の人を膝の上に座らせたりなんてしませんよ? セクハラだって訴えられてもおかしくないです」

「ごめんなさい」

「謝らなくてもいいです。残念ですけどあなたに下心がないことはもう分かっているので」

「……残念?」


 問いかけると五十嵐は誤魔化すように咳払いした。


「こほん。ところで牧野さんって何歳ですか? 三十代、ではないですよね。二十代後半でもなさそうです。23歳くらいですか?」


 ちょっと、いや、結構嬉しくなる。「私何歳にみえる?」なんて問いかけてくる親戚の気持ちが昔は分からなかったけれど、今なら分かってしまう。若く見られるのって、確かに気持ちいい。勝手に口元が緩んでしまう。


「そんな若くないよ」

「だったら何歳なんですか? 私は17歳です」


 平然と自分の年齢を伝えられる。それが若者の特権だと五十嵐は知らないんだろうな。私も昔は知らなかったよ。ため息をついてから、五十嵐の頭を撫でた。くすぐったそうに目を細めている。


「27歳だよ」

「なるほど。意外とリアルな年齢ですね」


 失礼だけど五十嵐の言葉はどこまでも正しい。親がたまに電話かけてくるけど、恋人なんていないと返すたび、私の将来を真剣に心配してくれる。そう。真剣に。


 私もそろそろ恋人とか作ったほうがいいのかな。そんな心中を表情から察したのか、五十嵐は励ますみたいに頭を撫でてくれた。悪くはない。頭を撫でられるのはいい。だけど。


「私も誰とも付き合ったことなんてないですよ。同じです」

「この若者め……」


 17歳と27歳だと言葉のもつ意味が全然違う。私はジト目で見つめながら、もう一度五十嵐の頬をふにふにした。


「別にいいですよ。好きなだけ触ればいいです」


 なのに大人びた態度で微笑まれるから、敗北感が凄い。五十嵐の頬に触れるのをやめて、背中を向けた。もう寝よう。疲労や二日酔いや将来への不安や職場のストレスや老化以外なら、寝れば大抵のことは何とかなる。……何とかなってるのか?


「……おやすみ」

「おやすみなさい」


 五十嵐の優しい声が背中から聞こえてくるから、笑顔でリモコンに手を伸ばす。明かりが消えても、いつものように寂しくはならなかった。

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