模造

本上俊男(モトガミ‐トシオ)、35歳。美容師の道に入って8年と少し。

自分の店を持つ。美容師なら誰しもが持つささやかな夢は、長らく叶えられることがなく、そして唐突に断たれた。

君はいつまでも向上しない。来月で契約終了だ。向いていないから違う道を探しなよ。

自分よりも10歳も若い店主に、軽々と告げられた解雇通知。そんなことは法律が許さないと主張すると、店主は本上との契約書を持ってきて、後輩たちの前で大声で読み上げた。

「わかる? 本上さん。ウチは元々本上さんを雇用していない。僕は、あんたに客のカットを外注しているんだ。労働基準法の話を持ち出されても困る」

こういう誤った理解をする経営者はままいるから気をつけろ。以前、飲み友達が話していたことを思いだし、ぶつけてみた。だが、店主は本上の反論を鼻で笑った。

「本上さん、指名客は勝手にとって良いことになっているし、値段はウチの設定だけど個人営業可にしているだろ? 拘束時間も長くない。ウチはあんたに練習用のモデルや道具を提供しているが、あんたを拘束しているわけじゃない。他の子とは立場が違うんだ」

確かに、店主の言うとおりの条件だった。だが、それは店主の父が本上の弟子入りを認めたときの条件で、実際のところ、本上はこの店で働いていたはずだ。だいたい、若造が店主にならなければ、親父さんの店を引き継ぐのは俺のほうだった。

気がつくと本上の手は店主の顔を殴っていて、警察官に取り囲まれ、手に入るはずだった店は本上の手には永久に回ってこなかった。

ろくな退職金もなく、前歯を何本か折ったと主張する店主への慰謝料で貯金はカツカツになった。事後処理が済んで、別の店で働こうにも、店主を殴った事件は界隈で広がっていて、本上を受け入れる店はどこにもなかった。

気づけば居所をなくし、街を離れ、実家のあったG県に里帰りをしていた。もっとも、本上の両親は既に亡くなっており、親戚や兄弟姉妹もここにはいない。

実家のあった土地には旗竿状の妙なビルが建っていて、麻雀荘と貸倉庫になっていた。

故郷に帰る場所なんてなかった。彼が、長嵜エミリに出会ったのは、そうして行く当てもなく近場のファミレスで時間を潰していたときだ。

「おじさん、もしかして美容師なの?」

長嵜は本上の隣の席で独りピザを頼んでいた。背が高く、すらりとした女性だった。ストレートの黒髪は手入れはされているものの少し重たい印象があった。鼻が高く、髪を梳いて整えてやるだけで印象が変わる。おそらく美人の部類に入るはずだ。

初めはそんな風に思った。声に出たのか、長嵜とどのようなやり取りをしたのか、不思議なことに詳細は思い出せない。

だが、いつの間にか、彼女がアトリエと呼ぶ場所で彼女の髪をセットするようになり、気づけば実家のあった貸しビルは本上の店になっていた。客は長嵜の伝手がほとんどで実入りは少なかったが、店は維持ができる。そういう状態に持っていける。身体のどこからか活力が湧いていた。

半年前の話である。


「つまり、あんたは長嵜エミリを知ってるんだな」

坊主頭の男は、本上をバーバーチェアに縛り付けてそう問いかけた。何がどうなって縛られる羽目になったのか理解が追いつかなかった。彼らは突然店にやってきて、施錠していたはずの扉をあけて勝手に室内に侵入した。男たちは本上にはわからない方法で本上を締め上げ、そして1階に住んでいた彼女と面会した。

本上の目と耳が塞がれている間に、男たちは彼女と何かを話し、そして彼らを信じるなら彼女は去った。

「知ってるか、知らないか。まずはそこをはっきりさせようや、俊男さん」

男に睨まれて、本上はコクコクとおもちゃのように首を振った。長嵜エミリのことを知っているか? そう問われるならば、知っているが正しい。

「それで長嵜エミリってのはこの写真みたいに顔がないのか? っと、まあこの写真だと既に身体もないんだが、ややこしいな」

男の背後、壁に掛けられた写真は紅葉が映える山をバックに撮られたモデルの写真だ。もっとも、肝心なモデルの姿は白いシルエットになっており、映っていない。彼らがやってくるまでの間、そこには彼女が映っていた。男の言う写真の女が彼女のことを示しているのは明らかだった

「体型は似ていたと思うが、彼女は長嵜エミリじゃない。長嵜にはきちんと顔があった」

そうだ。あんな化け物とは違う。そう言い切れる一方で、本上は長嵜エミリの顔を思い出せなかった。現に、男がみせる数枚の写真のどれもが長嵜エミリではないことは断言できたが、誰に似ているとか特徴的な要素などを話すことはできなかったのだ

「化け物呼ばわりもどうかと思うが……それじゃあ、あの人はどうだ?」

男は自分の後ろ、部屋の入口に立つ女性を示す。ロングコートとネックウォーマーのせいで体型はよくわからないが、背丈と顔の印象は長嵜エミリに近い。

「あんたさ、もしかして女性は体型だけ見ていて顔覚えないタイプ?」

随分と失礼な物言いに、本上は抗議した。長嵜エミリの顔が思い出せないだけで、その言われようは心外だ。男がみせた写真の女たちだって全員覚えている。永海サチ、斉藤波絵、琴沖鳩。目の前の女性は名前は知らないが、二駅先の駅ビルで見かける会社員だ。出てくるビルとスーツに付けた社章から、たぶん社名も当てられる

「え? 当たってるの。そこまで来るとかえって気持ち悪いな」

きちんと顔を覚えていることを示しても文句を言われる。それならどうしたらよいのだ。

「人の顔も覚えていることはよくわかったが、あんたがどういう生き方をすべきかは知らねぇよ。ところで、写真の三人はなんで名前まで知っている」

それは言いたくない。顔を背けると、男の拳が眼前で空を切った。

「次は当てるぞ」

男の理不尽な振る舞いに涙が出た。


永海サチ、斉藤波絵、琴沖鳩。それらはいずれも店に長嵜エミリが来なくなった後の顧客だ。

長嵜エミリが来なくなったのは3か月くらい前からだ。いままでは週に2度ほど来ていたのに、ぷつりと足が途絶えてしまった。本上の顧客は長嵜エミリを起点に増えたものなので、彼女が来店しないと他の客の信用にも関わりかねない。

本上は長嵜エミリへの対応を何度も見直し、自分に落ち度がないか確認をしたが、出会った頃から足が途絶える直前まで、対応を変えた部分はない。彼女の希望をきき、彼女の希望に沿って、彼女に似合う髪型を目指してきたはずだった。

それでも来店しない理由がある。一度気になってしまってからはダメだった。他の客の対応をしていても、店を閉めたあとも、長嵜エミリが本上から離れた理由が気になって仕方ない。

気づけば彼女から受け取った名刺の住所へダイレクトメールを送り、最寄りの駅に立ち寄る時間が増えていった。

そのころから、夜、店に戻ると自分以外の誰かの気配を感じるようになった。疲れでおかしくなっている。初めはそう思っていたが、ある夜、店内で彼女に遭遇して、認識を改めた。

どう貶されようともわかってほしいのは、本上は初めから彼女が化け物だと認識していた点だ。あれは人間ではなく、人間の皮を被った何かだ。

それでも、行方のわからない長嵜エミリの模造品ではあった。彼女は本上に、長嵜エミリとは何かを問い続けた。化け物の意図などわからないが、本上は執着を晴らす良い機会だと思い、長嵜エミリについて知っていることを話した。時に、店を訪れる客で長嵜エミリに似ている人がいればそのことを伝えた。

永海サチ、斉藤波絵はそうやって彼女に名を告げた顧客たちだ。

「それで、化け物に彼女たちを捧げた?」

誓ってそんなことはしていない。彼女たちも次第に店には来なくなったが、彼女も本上も、ただあの二人が長嵜エミリに似ていると話しただけだ。


――――

「それじゃあ、あといくつか答えてくれ。長嵜エミリの家にダイレクトメールを送ったのは一度だけか?」

本上は、猿田の質問に小さく頷く。弁明は多弁なのに核心に近づくと言葉が減る態度がどうにも気にくわない。

本上の顔は腫れていて、椅子に縛り付けられているが、門真がいる前で暴力を振るうことは避けたい。幸い、この男は拳を視界に入れながら睨み付けるだけで怯えたように話す。

とはいえ、男に加えた暴行のほとんどは譲葉によるもので、猿田が殴ったのは2回だけなのだが。

「1回だけってんなら、住所は覚えてるか」

「覚えてない」

「本当に1回だけか? なんども何か送ってるんじゃないのか」

「送ってない。1回送って、来なかったらそこまでだと思ったんだ。それに、あの女が嫌がったんだよ。長嵜エミリの話を聞きたがるくせに、長嵜エミリのことは嫌いなんだ」

本上は、顔のない女を化け物だと認識しておきながら、ところどころ彼女の気を惹き、好意を買おうとしていたらしい。女がこちらに干渉するための楔を持っていた以上、彼女と本上には何かしらの契約関係があったはずだが、まるで詳細がわからない。

「サル、なんかわかった?」

そうこうしているうちに、ビルの上階を調べ終えた譲葉が美容室に戻ってきた。振り返ると彼女は入口に立つ門真の携帯をのぞき込み小さく頷いている。

「ああ、心配しなくて良い。一通りビルを巡ってみたんだけど、そろそろだと思うんだ。疑問はあると思うけど、もう少しここで画面を確認していて欲しい。それで、サル。どうなの?」

「どうといわれてても、よくわかんないっすよ。わかんないことはわかったというか、こいつ肝心なことは話さないんですから」

睨み付けてやると、本上は小さく息をすいこみ肩をすくませる。

「まあ、そうイライラしない。私のほうも概ね同じだよ。3階まで見てきたけれど、私たちが探しているレディはいなかったよ」

「だから言っただろう、客だったが、彼女たちがどうしているかなんて知らないんだ」

「へぇ……客って認識はあるんだ」

何に興味をもったのか、譲葉は早足でバーバーチェアに近づき、縛り付けた本上の目に顔を近づけた。

「なぁ、ホンジョウさんだっけ」

「モトガミです」

「そっか、本上さん。これ以上危害を加えるつもりはないんだ、最後に教えてくれないか。この店を開いてどれくらいになる」

「半年」

「半年、ねぇ。それじゃあ、店を始める前、貯金はあったか?」

「なんでそんなことを」

「大切なことだからだよ。強盗じゃないから安心してほしい」

この状況で全く説得力がない発言だ。だが、門真が必死に携帯の画面を操作している姿を見て、猿田は考えを改めた。

「200……300あるかないかだと思う」

「200円?」

「そこまで落ちぶれていない。200万だ」

「そっか。それならまあ大丈夫だな」

「さっきからなんなんだ。あんたも、その男も何が聴きたくてこんなことをしている」

意図のわからない問いを繰り返され、本上の我慢に限界が来つつある。譲葉は1歩後ろに下がり、本上と距離を取る。そして、店内をぐるりと見渡してから両手を大きく広げた。

「サルの質問は私たちの仕事に関わる話だ。そらはもういい。今の君に聴いても碌な情報はなさそうだからね。さっきの私の質問は、君への純粋な疑問が半分、身を案じる意図が半分だと思ってくれ。

それて、君への疑問のほうはまだ解消されていない。だから改めて質問するよ。本上さん、君はこの半年、何で生計を立ててきたんだね」

「何って、店をやってたんだ」

「ここで?」

問い返す譲葉のもとに門真が駆け寄ってくる。彼女の眼には涙が滲んでいた。

「ここ以外にどこがある」

「譲葉さん! もとに戻りました!」

本上の回答と、門真の報告が重なると、室内に吹いた隙間風が猿田の身体を震わせた。さすがに夜になると冷え込んでくる。特に窓も空調も壊れた廃ビルのなかだとなおさらだ。

納得しようとして、猿田は固まった。先ほどまで、しっかりした内装だった美容室は、内壁は剥がれ窓は割れ、夜風が吹き込む廃墟になっている。パーマ液の匂いも、白い壁も、シャンプー台やバーバーチェアもない。むき出しになった基礎のうえに木製の粗雑な椅子が捨て置かれており、本上俊夫はその椅子に縛り付けられている。

「マジかよ」

とんだ悪夢だ。


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