紫煙2

手にした煙草の火はまだ燻っている。


眼前に立つ顔のない女は、譲葉の謝罪に反応しない。相手の胸中はさておき、いま、ここには言葉を尽くす機会がある。

「よければ、話くらいは聴いてくれ。私たちは、三人の女性の行方と、ある女性に大量の不審な手紙を送りつけているストーカーを探している。

どちらの手がかりもここに転がっている男か、あるいは今あげた四人の女性が口にした、ある女性が持っていると思っていた。だが、どうにもこの男は役に立たない。私たちを不審者扱いして聞く耳すら持たない。

あなたはどうだろうか。永海サチ、あるいは斉藤波絵、琴沖鳩という名前に聞き覚えはないか?」

写真から出てくるような化け物に名前を尋ねてどうするのか? 猿田の視線が痛い。譲葉に聞こえないような声で独り言を言っているようで耳障りだ。

振り返って睨み付けると、まん丸に開いた猿田の目と視線が合った。

「姐さん後ろ!」

譲葉は、背後を確認することなく、そのまま半回転をして真後ろを蹴った。脛が粘土の固まりを圧す感覚、足に遅れてやってくる視界には右の壁に向かって飛んでいく女の身体が映る。壁にたたきつけられ、仰け反り崩れ落ちる彼女の首元を、あれこれ考えるよりも先に左足で思い切り蹴りつける。

譲葉の左足は、彼女の身体を貫き、壁に靴痕を残しているのに、血や肉が飛び散る様子もない。声も咳も涙も出さず、女はただ衝撃に小さく震えるのみだ。

すぐに反撃されるのも面倒なので、念入りに、両肩と両足も踏みつけておく。首元と同じように粘土のような触感と共に各部は潰れ、譲葉の靴裏の型がべったりと刻まれる。どうやら外見は人間に近いが骨や筋肉は存在しないらしい。

「しかし、これは困ったな、対話の余地もないか?」

「手を出す前に言うべきセリフっすよ」

「それは彼女に言ってくれ。あちらがもう少し慎重に動いてくれれば、私もこうはならない」

「そういうものですかねぇ。というか、さっきからなんすか。足もとでもごもごと」

どうやら耳障りな声は猿田ではなく、踏まれている男が出していたらしい。今度は女から目を離さぬように後ずさり、男のリーゼントを掴んで無理やり顔を持ち上げた。

「シラナイ」

「何が?」

猿田はそこまで強く男を引き倒していなかったはずだが、目が腫れて鼻血が出ている。壁際で身体に穴が開いている女よりよほど痛そうだ。

「ソンナオンナシラめてくれ」

声が太くなり、不明瞭な発言に変わる。

「サル、こいついま視えてるの?」

「視えないし、聞こえないですよ。解いちゃいない」

猿田が言い切ったことには安心できるが、そうだとすればこの男は何に反応して声を出しているのだろう。知らない。男の発言は譲葉の質問への返答だ。室内には譲葉と猿田、そして壁に崩れ落ちた顔がない女。

なるほど、白飛びした顔でも見えるし聞こえるが声は出せない。故に男の声を借りているのか。

「サル、探しておけよ」

「抜かりなく」

人語を理解するタイプに不用意な発言は控えたい。猿田への指示は最小限に、譲葉は彼女の気を惹くために懐の写真を取り出した。

「名前じゃわからないならこれを見てくれ」

永海サチ、斉藤波絵、琴沖鳩。言澱から受け取ったそれぞれの写真を彼女に向けると、男の頭がぶるぶると震え始める。

「彼女に、みせるなよ…うぁ」

初めに聞こえたかぼそい声ではなく、固く低い、本来の男の声。彼の懐をまさぐっている猿田は小さく首を横に振る。男は見えていないのに、何をみせたのか想像がついていて、極端にそれを嫌がっている。

「もしかして、この写真の女のことなら知ってる?」

男の頭が震えて、泡を吹き始める。女の代わりをすることを拒んでいるのだろうか。

「意識落としたらスムーズかな」

「その代わり、縛りは解けますよ」

すぐに目覚めることもないし、害はない。面倒なので床にたたきつけようと思ったが、唸って泡を吹いている男の顔をみると少々憐れだ。

「まあいいか。彼女たちを知っているな?」

男がうめき、鼻血を垂らす。女の発言に抵抗した結果なのだとしたら、男も何か知っているだろう。

「姐さん、これ」

ほどよく、猿田が男のシャツから紙片をを取り出した。譲葉は男の髪から手を放し紙片を受け取る。男の頭が床にぶつかり鈍い音を立てたが、呻くところをみると意識は残っているだろう。

「後はこの男に聴くよ。悪いが君は追放だ」

「ヤメロ ナンデソレヲモッテイル」

女は譲葉が手に持っている紙片に気づき悲鳴のような声をあげた。蹴りつけた身体が再構成されない以上、最大限の抗議なのだろう。聴いてやる筋合いはないが、彼女の抗議には口を貸す男のことは興味深い。やはり、尋問すべきは化け物よりこの男というわけだ。

それなら、時間をかけるだけ無駄だ。

「こんな男を楔に選んだ自分の選択を悔やむんだね」

「イヤダ モドリタクナイ オマエタチニ ナンノケンリガアル」

そんな嘆願、久々に聴いた。残り少ない煙草を薫らせ、紙片を二つに裂くと正中線にそって女は裂け液体に還る。塩素の匂いが室内に満ちたのは一瞬で、十秒も経たぬうちに女の気配は消え去った。

両手の紙片は靄が晴れて、安っぽい名刺へと変化する。どうやら男の名前は本上俊男というらしい。

「君さ、名刺には読みを振っておくべきだと思うぞ」

本上氏は床にキスをしたまま“ぶぶぶぶぶぶ”と妙な音を出し続けている。女が消えて、身体を使われることはなくなったろうにおかしな男だ。

「とりあえず、そこの椅子に縛り付けるんで、姐さんは外の門真さん観てきてください。ビルの家捜しは彼女を連れてきてからでいいでしょう」

「でも、男の顔みたら警察呼ぶんじゃないか?」

猿田は、驚いたような顔で譲葉をみた。

「姐さん、そういうところは常識的っすね」

煙草の燃え殻を握りつぶし、譲葉は拳を振り上げた。

とりあえず一発殴らせろ。当然、猿田には断られたが、希望を通したかは黙秘することにする。



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