虚家1

 彼女たちに会ったのは朝で、別れたのは昼前だと思う。だから、別れてから半日も経っていないはずだ。


「昼食ならお勧めがあるよ」

 そう言って、彼女は近所のネパール料理屋のランチチケットをくれた。わざわざ勧めるだけあってランチは美味しかった。

 食後にクリーニング中の衣服を取りに帰ってみて、彼女がネパール料理屋を紹介してくれたことに納得した。ランチタイム用に置かれているメニューは、お世辞にも美味しさへの配慮はなさそうだった。

「ランチはダメなんすよね、うちは」

 乾燥機から取り出した衣類を片手にランチメニューの看板をみていると、横を通ったネットカフェの店員がぼやいた。

「ああ、注文します? やめといたほうがいい。それなら裏のカレー屋のほうが百万倍うまい。金がないならせめてディナータイムまで我慢することを勧めるよ。ドリンクバーでアイスとか食べられるからさ」

 店員にそこまで言われるランチというのもかえって気にはなるが、やはりメニューの写真では全く食欲がわかない。今後、機会があったとしてもここで昼食を摂ることはないだろう。


 具体的なやりとりはしっかり思い出せるし、シャワーと食事で大分と落ち着いている。それでも待ち合わせ場所に現れた譲葉煙の姿をみて、私は混乱した。

「時間通りだと思ったが、待たせたかな」

 別れたときとは打って変わり、譲葉は黒を基調としたスーツに着替えている。ジャケットを腕に掛け、インナーの黒いベストと、白のシャツ。両手には黒皮のグローブをはめているので指先は見えなかった。

「いいえ、私も着たばかりで」

「それならよかった。準備に手間取ってしまって、待たせてしまったかと」

「待たせているでしょうが。世辞ですよ世辞。ああ、これ温かいんでよかったら」

 譲葉の後ろから顔を覗かせた猿田は別れたときと同じ、パーカーとジーンズ姿で私に缶コーヒーを差し出した。すぐ飲まなくていいし、なんなら飲まなくていいっすよ。手の中で転がしているだけでも温かいでしょう。そう言って、自分も手の中で缶コーヒーを転がしている彼をみるうちに混乱は収まっていく。

 彼の真似ではないが、温かいコーヒーを両手で何回か持ち替えていると身体が温まっていく気もする。

「それと、姐さんが黒に着替えたのは、白は汚れるからです。白は面会用。黒は仕事着なんですよ」

 私がちらちらと譲葉のスーツを見ているのに気づいたのか、猿田が軽く説明をしてくれる。

「面会用? ここは違うんですか?」

 背後の建物を指差すと、猿田は眉をハの字にする。

 譲葉たちとの待ち合わせ場所は、部屋に届いていたダイレクトメールの住所、すなわち長嵜エミリ宛の手紙の差出人である美容室だ。

 私の後ろには、白い壁の細長い3階建てのビルが建っており、入口にはダイレクトメールと同じ名前の看板がかけられている。

「本当にあるっすね」

「まあここまでは想像通りだね」

 二人の反応は正反対のように見えるが、次に考えていることは同じらしい。譲葉はビルの窓に映る自分の姿を見ながら身なりを整えると、CLOSEの看板に臆することなく扉に手をかける。

「もう遅いし誰もいないんじゃないですか?」

「7時で遅いと言うほど長閑な立地じゃないでしょう。駅前もまだ賑わっているし」

 猿田の言うとおり、最寄り駅は仕事帰りの人で賑わっている。この駅で降りたことはないが、美容室の二本となりの通りに出れば、飲食店やドラッグストアなどがあって人通りはありそうだ。だが、CLOSEの看板はCLOSEの看板だ。

「店主はまだいるかもしれないし、私みたいな客には扉を開いてくれると思うんだ」

 根拠のわからない自信で譲葉が扉の前に立つと、鈍い金属音と共に扉が開いた。こちらを振り返り笑ってみせる彼女はいつの間にか煙草を咥えている。灰はほとんど見えないから扉を開く直前に火を付けたのだろうか。どうして?

「良くないってわかっているんだけど、こいつはツキを呼び込むんだ」

 そんな言い訳をしながら、譲葉は扉から半歩身体を店内に差し入れる。扉が開いたのは偶然なのか、彼女はそのまま何度か店内に声をかけた。

 やがて、ビルの2階窓に明かりが灯り、ドタドタと誰かが下りてくる音が響く。

「ちょっと、なんですかあなたたち」

 やがて入口に出てきたのはオレンジと青を基調とした花柄のベストの男だった。堀が深く顎が細い輪郭に紫のメッシュが入ったリーゼント、薄いブラウンのサングラス。全体的に趣味が悪い。

「あーなんだ……客?」

「はい? 困るんですよ勝手に開けられちゃ。というか、なんで扉開いてんの」

「誰かいるかなと思って引いてみたら開いたので。一応声かけて入るべきだと考えた次第です」

「いや、まぁそれは正しいと思うけど、それはそれとして閉店なの、看板あるでしょう。閉店。扉に鍵かけてたでしょう」

「そうなんですか? 引いたら開きましたけど」

 譲葉はノブから手を放して男に向かって両手を上げてみせる。その間も足はビル内に差し込んでいて男が無理に扉を閉めることを防いでいるのが手慣れている。

 男は譲葉の立ち位置に視線を投げつつ扉を確認し首をかしげた。

「私は扉を引いただけですよ。歪んでいたり壊れていたりはないでしょ。何より、男性のあなたが重そうにしている扉を私が引いただけで壊すのは無理ですよ」

「おかしいな……まあ壊れてないのは確かだけど、さっき言ったとおり閉店してるの」

「ここ、美容室なんですよね」

「おたく、話聴いてる?」

「明日、朝一で急遽パーティーに出なきゃいけなくてね。セットしてもらえる場所を探しているんだよ」

「よそあたりなよ」

「ああ、やっぱり美容室なんだ。よかった。実はここの美容師は腕がいいって聞いてさ」

「とにかく、閉店だから出てって」

「ええ? 彼女は融通してくれるはずって言ってたんだけどな」

 譲葉はそう言って、猿田と私のほうを向く。男がこちらに顔を向けると、猿田も何も言わずに私の顔を見た。譲葉の言う彼女は私のこと? 驚いて男の顔をみると、どういうわけから男は私から顔を逸らした。その反応をみて、譲葉がの口角がほんの少し上がる。

「誰だっけ、名前思い出せなくて」

「えぇ? 姐さんの知り合いでしょうが」

「まあそうなんだけど、ああそうだ。永海サチ、彼女が教えてくれたんですよ」

 譲葉はわざとらしく指を鳴らし、私の家に届いていた督促状の宛名を口にした。会話にまるで脈絡がなくて、目的がわからず私は彼女たちを見守るしかなかった。もちろん、呼びだされた男の側もそうだろう。私は当然にそう考えていた。

 だが、永海サチの名前が出た途端、男は扉を完全に開けて譲葉の前に立った。今まで前屈みだった背筋を伸ばすと、譲り葉よりも頭一つ大きい。男は煙草を片手に彼を見上げる譲葉を睨みつけた。

「知ってるでしょ。永海サチ。入らせてもらうよ」

 譲葉は間近で睨み付けられても余裕を崩さない。彼の気迫などお構いなしで、ビル内へと踏み出す。男は先ほどまでとうって変わり、乱暴に譲葉の腕を掴んだ。

「待てといってんだろ」

 譲葉は男の制止をするりと抜けてビル内へと消えていく。男は猿田と私に背を向けて、譲葉のあとを追いかけた。閉じていく扉に猿田は慌てて手をかけると、1度だけ私のほうを振り返った。

「門真さん。あとは俺と姐さんに任せてくれ。督促状が届くのは今日までだよ」

 彼の真意を確かめる前にビルの扉はゆっくりと閉じた。駆け寄ってノブを掴んでも扉は動かない。

 自動でロックがかかる仕組みらしい。なら、譲葉はどうやって扉を開けたのだ?

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