第32話 拝啓、マドレーヌに愛をこめて
美桜は走った。
(ゆう兄ちゃん……ゆう兄ちゃん、ゆう兄ちゃんっ……!)
マンションを飛び出して、通りを横切って、歩道橋を渡って。
夕焼けのオレンジ色の中を走る。
「……ぅうっ……」
気を抜くと涙がこぼれていく。キラキラと光の粒になり、アスファルトに当たっては砕ける。
とにかくどこかへ行ってしまいたかった。
(マドレーヌ、ほんとに嬉しかった。私なんてチョコあげるの忘れてたのに、忘れてたことすら忘れてたのに、ゆう兄ちゃんは……こんな私にもホワイトデーだからって贈り物をくれて……!)
ふわりとバターが香る。
悠陽のくれたマドレーヌたちだ。ほんのりと温かい。
先ほど食べたのを思い出し、また瞳が潤む。
(食べてすぐ分かったよ、ゆう兄ちゃん。たくさん練習したんだよね。お菓子を作ったことないゆう兄ちゃんが、こんなに美味しいマドレーヌを焼けるようになって……頑張ったんだよね、分かるよ)
まだバターと砂糖の甘みがふわりと口の中に残っている。
けれど、頬を伝って涙のしょっぱさも混じっていて。
(指先に火傷があったのも見えたよ。私のために作ってくれたんだよね。嬉しいよ。でも、でもさ)
唇を噛む。
(なんで!? なんでゆう兄ちゃんはなんでも一人でできちゃうの!? 私の助けなんて要らないじゃん、もう)
「私なんていなくても……! ゆう兄ちゃんは……!」
美桜の心はぐちゃぐちゃだった。
(ゆう兄ちゃんがコールドスリープから覚めたときはすごく嬉しかった……! なのに……なのに、どうして!)
初めは、自分が悠陽の世話をできるのが嬉しかった。昔とは立場が逆転したみたいで、今度は私が役に立つぞ、という風に美桜は思っていた。
だからこそ悠陽が元気になるにつれ、複雑な感情が芽生えてしまったのだ。
自分が居なくてもこの人は生きているんじゃないか、と。
あれだけ悠陽が目覚めたことが嬉しかったはずなのに、いまではその悠陽から逃げるように、美桜は走っている。
玄関でつっかけただけのスリッポンで、ペタンペタンと走っている。
マドレーヌを抱きしめたまま、走っている。
どこに向かっているのかも分からない。
自分でも訳が分からないままで──……
(違う、本当は分かってる)
美桜は頬の涙をぬぐう。
(捨てられてしまうのが怖いから、自分から逃げ出したんだ……!)
たとえば、もし悠陽から「美桜ちゃんが居なくても生きていけるよ」などと言われてしまったら。
考えるだけで背筋が凍る。
(ゆう兄ちゃんはそんなこと言わないと思う、思うけど、でも)
万が一にもそうなったら?
美桜は身を震わせる。
本当なら一番に助けてくれるはずの悠陽から捨てられてしまうかもしれないという恐怖を抱えたまま。
夕焼けの中をがむしゃらに走るしか、美桜にはできなくて。
(助けて、誰か。誰でもいいからこの冷たさを、誰か──……)
「美桜ちゃん!」
声がした。
振り返ると悠陽がいる。
◇ ◆ ◇
悠陽は焦っていた。
どうにかここまで走ってきたが、いよいよスタミナが限界を迎えそうだった。鳴りっぱなしのスマートウォッチの音がそろそろ耳にこびりつきそうで。
そこに来て美桜は、うわーっと叫びながら逃げようとする。
(置いていかれる、このままじゃ……)
だが心配したようにはならない。
美桜も疲れ切っている。
二人揃って、へろへろのバテバテ。
大通り沿いの歩道。夕焼けに照らされた二人は、三月の寒空の下、汗だくになりながらノロリノロリと歩きながら追いかけっこをしていた。
「ま、待って美桜ちゃん……!」
「や、やだ! ゆう兄ちゃんはここまで追いかけてこられるくらい元気になったんだから! 私なんていなくてもいいんでしょっ! マドレーヌだって一人で作れちゃうんでしょ!」
「ええっ、なんでそうなるんだ!?」
「いいじゃんもう! ゆう兄ちゃんには関係ないじゃん!」
「関係あるよ、美桜ちゃん!」
「なんで!? なんでよ!!!」
「だって、美桜ちゃんが泣いてる! 俺は、美桜ちゃんに笑っててほしいから!」
「わっはっはー。これでいい!? ……ぐすっ」
「ぜんぜんウソ笑いじゃん! よくないってば! ちっとも良くない!」
「違うし! 泣いてないし!」
ぎゃあぎゃあと子供みたいに言い争う姿に、通行人たちはなんだ姉弟ゲンカかと避けていく。
悠陽は恥ずかしくなりながらも美桜の背に言葉を投げ続ける。
「俺、まだ、マドレーヌの意味を伝えてなくって、だから、えっと」
「意味? 意味ってなに!?」
「ホワイトデーの贈り物だから、その意味があって──」
「わ、わあああ! 聞きたくない! わあああ聞こえないいいいい」
美桜が耳を抑える。
だから悠陽は、立ち止まる。
立ち止まって深く息を吸って。
「仲良くしたい!!!」
叫んだ。
腹の底から声を出した。
その声に、美桜が振り返る。
ほんの数メートル先。沈みかけた茜色の夕焼けに包まれて、すっかり大きくなった幼馴染が悠陽をじっと見つめる。
もう耳は塞いでいなくて。
「……なんて、言ったの?」
「仲良く、したいんだよ。その、マドレーヌは二枚貝が合わさった形をしてるから、そこから取って、仲良くするって意味で、その」
「ゆう兄ちゃんが、私と?」
「そ、そうだよっ! 俺は! 美桜ちゃんともっと仲良くしたいんだよ!」
照れくさくなりながらも悠陽は言い切る。
すると。
「うぁああああん、私もだよぉおおお!」
どむっと、重たくて柔らかいなにかが顔を埋め尽くした。
駆け寄ってきた美桜に全力で抱きしめられ、その大きな胸に包まれていた。
(うぉ……でっか……!)
思いがけない弾力に悠陽はノックアウトされかける。
しかし、鍛え始めていた悠陽は、あと少しのところで踏みとどまり。
ゆっくりと美桜から体を離す。
(落ち着け……落ち着くんだ、俺)
ふーっと息を整えてから尋ねる。
「美桜ちゃんも、俺と仲良くしたいと思ってくれてたの?」
「私だってゆう兄ちゃんと仲良くしたかった!」
「じゃあなんで、なんで急に家に来てくれなくなったのさ」
「だって、ゆう兄ちゃんは一人でなんでも出来るようになっちゃうしさ! 私がお世話するまでもなくなって、うう……私なんて要らないって言われるんじゃないかって」
悠陽は、思いもよらない言葉に虚をつかれる。
「えっ、言わないよ。だって俺、昔から美桜ちゃんのことが大事だし、それに今の美桜ちゃんだって、す──……」
「……す?」
美桜が言葉を待っている。
ピンク色の唇は期待と不安で震えていて。
悠陽は吞みこみかけた言葉をしっかりと吐き出す。
「す、好きだからだよ! 美桜ちゃんのことが!!!」
次の瞬間。
唇がふさがれる。
甘い匂いと温かい感触がする。ふわりとマドレーヌの香りがして。
悠陽は、美桜にキスされていた。
「私も……私も好きだよ、ゆう兄ちゃん」
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