第28話 天国は女の子のカタチをしている

「どこにもいかないで、ゆう兄ちゃん」


 美桜の温もりを背中越しに感じる。大きくて柔らかな胸が悠陽の背中へむぎゅむぎゅと圧迫感を与えてくる。


(ああ! ああぁっ……!!! 当たってる! 当たってるから!)


 心臓がひっきりなしに鳴りつづける。鼓動が耳に直接届いているみたいにドクドクドクと脈打っている。

 美桜の締め付けが緩む気配はない。

 悠陽は叫びたい気持ちでいっぱいだった。だがそういうわけにもいかない。後ろには風邪でダウンしている美桜がいるのだ。


(ど、どど、どうしようか。うん、落ち着け、おちつっ……けえっ……!)


 悠陽が必死に己を律していると、背後からすすり泣く声が聞こえてきて。


「ゆう兄ちゃん……帰らないって言ったのに……ううぅ……」

「えっ!? や、だから帰らないってば。お水、取ってくるだけだよ」

「じゃあいっしょに行く」

「い、一緒に?」

「このまま行くもん」

「このまま!?!?」


 つまり、抱きつかれたままの格好で、美桜の家の中を歩いていくということ。


(なんてプレイ!? もはや拷問か!?)


「ゆう兄ちゃん、はやく」

「うっ……わ、わかったよ」


 圧に負けて悠陽はゆっくりと進む。

 歩くたび、背中の重みが形を変えて押し付けられる。

 悠陽はかつて店でバランスボールと呼ばれる健康器具に乗ったときのことを思い出していた。


(こう……柔らかいのにちゃんと反発もあって、弾力があって、何度も触りたくなる感じが……いやいやバランスボールの話な?)


 誰に咎められたわけでもないのに、一人で言い訳をはじめてしまう。

 電車ごっこと呼ぶにはな二人は、ぴっとりとくっつきながら台所までえっちらおっちらやってくる。

 悠陽のスマートウォッチはとうに心拍数の上昇を告げていたが、もうどうにでもなれといった気分で。

 グラスに水を注ぎ、悠陽は元来た道を戻る。

 美桜に背中から抱きつかれたまま。


(うぉおおおお煩悩退散煩悩退散んんん……!!! 思い出せ、美桜ちゃんが可愛らしかったときのことを……)


 幼かった美桜はまさに妹みたいだった。あの頃は女性を感じさせるものなど無かったのだ。

 よく笑ってよく怒ってよく泣いて。

 感情表現がストレートで、ちょっぴりワガママで子供っぽくて。


(ゆう兄ちゃん、って引っ付かれたことはよくあったけど、あの無邪気な響きにはぜんぜんドキドキしたりしなかっただろ、俺! よしよし……)


「ゆう兄ちゃん?」

「ひゃう!」


 耳元で、甘く熱っぽい声がした。

 美桜だ。

 鼓膜がとろけてしまいそうな、吐息混じりの「ゆう兄ちゃん」の響き。幼いころの「ゆう兄ちゃん」を簡単に塗り替えてしまうほど甘美な音だった。


(風邪だからこうなってるだけ。風邪だからこうなってるだけ。風邪だからこうなってるだけ……)


 呪文のように自分に言い聞かせる。

 そうでもしないと悠陽のなけなしの理性は美桜の吐息によって四散してしまう。


「はぁ……はぁ……ようやく戻った……」


 美桜の部屋に帰るころには息も絶え絶えの悠陽。


(水を取りに行っただけなのに、なんで???)


 自分も熱が出そうだと思いながら、悠陽は美桜に風邪薬を飲ませる。


「じゃあ、寝よっか」

「うー……」


 美桜はもぞもぞとベッドにもぐりこみ。


「あ」


 思いついたように、羽毛布団をめくってみせて。


「ゆう兄ちゃんも寝る?」

「へっ!?」


 何を言い出すんだ、と返すよりも早く、二の矢が飛んでくる。

 いつもつけていたピンク色のシュシュをしていない美桜は、それだけで見た目の幼さがスッと抜けている。

 結ばれていない髪が艶っぽく枕もとで波打っていて。

 つまり、年上美人の色香がこれでもかとかれている。

 美桜がとろんと目を細める。


「一緒に寝るよね」

「えっ、えっ」

「早くして、さむい」


 拒否権はないらしい。

 悠陽は理解が早かった。

 なにより、美女からベッドに誘われて抗えるほどの理性が残っていなかった。どくんと弾む心臓で、美桜の眠るベッドに身を沈ませる。

 ふわりと布団が被せられて、悠陽と美桜は同じベッドで一つになった。


「んむ」


 美桜がすかさず悠陽の右腕を抱き枕代わりにする。

 しまった、と悠陽は焦る。

 先手を取られては動けない。襲ってくるのは、胸が当たるとかそんな生ぬるいものではない天上のふんわり触感。


(うぉ……でっか……)


 コールドスリープから目覚めて初めて感じた情動と全く同じで。


「あ、あのー、美桜さーん?」


 小声で呼びかけると美桜が「んんー」とうなる。眠気はマックスらしい。すでにまぶたは閉じていて、おやすみモードに入っていて。

 そしてより強く抱きしめられた。


(ぎぃいい……! 美桜ちゃんの全身が俺の腕を包みこんでいる……!!!)


 ぼうっとするほどにぬくい美桜の体が、悠陽の細腕に絡みつく。柔らかさは一種類だけじゃないのだと、悠陽はこのとき初めて知った。


(胸とお腹と腕と……ぜんぶ柔らかくて、ぜんぶ違う柔らかさだ……)


 いま世界で一番幸せな右腕だろうな、と悠陽は思う。天国は女の子の形をしているらしい。


(コールドスリープっていう仮死状態から生き返ったけど……俺の命は今日ここで終わるのかもしれない。幸せすぎて)


 もぎゅもぎゅで、むにむにで、もちもちで。

 どうなってもいい、さようなら自分。

 そう思ったときだった。


「ゆう兄ちゃん……」

「お……おぉ……?」


 美桜が目を閉じたまま呟く。

 悠陽は爆発しそうな理性を押しとどめながら、かろうじて返事をする。


「……みおを……独りにしないでね」


 途切れてしまいそうな細い糸のような声。

 悠陽は思わずハッとした。

 隣で眠る横顔を見ると、美桜のほっぺたにはひとすじの濡れたあとがあって。

 

「美桜ちゃん、泣いてるの……?」


 返事はない。

 ただ穏やかな寝息が返ってきて。

 さきほどまで感じていた興奮がすうっと鎮まっていくのを感じる。鳴っていたスマートウォッチの音も次第に収まっていく。


「……美桜ちゃん」


 悠陽には彼女の眠る姿がとたんに幼く感じられて、胸の中に一つの感情が湧いてくる。

 初めて会ったときに知った気持ち──庇護欲ひごよくだ。


「だいじょうぶ、どこにもいかないからな」


 悠陽は美桜の頭をそっと撫でる。

 そうして美桜が深い眠りにつくまで、ずうっとそばにいるのだった。


 それから数日後。

 美桜の風邪はすっかり完治した。バイトにもいけるようになったという。

 だが。



 風邪の日を境に、美桜からの『お世話』は無くなってしまった。

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