第20話 運動のあと 前編
悠陽は洗面所で髪を乾かしてからリビングに戻る。
と、異変に気付いた。
床に見覚えのある衣服が落ちている。
「あれ? 美桜ちゃん、ジャージ忘れてら」
さっきまで美桜が羽織っていたジャージだった。
その美桜はと言えば、先ほど逃げるように家に帰ってしまった。
悠陽は、落ちていたジャージを拾い上げて。
「晩ごはんの時に渡せば……いや、さきにチャットで言っておくか」
テーブルの上のスマホを手に取るため、ジャージを一度ソファに置こうとする。
あとで渡すのだからと悠陽は律儀に畳もうと考えた。
くしゃっと放られていたジャージを丁寧に広げて──
それが引き金を引いてしまう。
甘い匂いが鼻先をふわりと
(うおっ、なんだこれ! めっちゃいい匂い!)
美桜のジャージから甘くて落ち着くような香りがするのだ。
ボタニカルにも思えるけれど、悠陽には特定できない。
(これ柔軟剤……じゃないよな? 香水……とも違うような)
人工的な香りではないと悠陽は直感で気づいた。
それから、残された可能性が脳裏をよぎる。
(もしや、美桜ちゃんの匂い?)
そうだ。そうとしか思えない。
気付いた途端に悠陽は固まった。
(ものすごくいい匂いだ……聞いたことがあるぞ……いい匂いと思う相手とは遺伝子的に相性がいいという話を!)
生物の授業で教師が話していたんだったか。
遺伝子的に近い相手とつがいにならないように、なるべく自分とは違う相手の匂いを素敵だと感じるようにできているとかなんとか。
(つまり俺と美桜ちゃんは……って、いやいや! 向こうもいい匂いだと思ってくれてるとは限らないしな!)
バクバクと心臓が鳴っている。
スマートウォッチから通知が届くのも時間の問題だろう。
(にしてもすごくいい匂いだったな……)
悠陽は手元のジャージを名残惜しそうに見つめる。
(嗅ぎたいっ……!)
痛切な叫びだった。
(さっきちょっと香っただけでもめっちゃいい匂いだったんだ……もしこれをたっぷりと堪能できたら、幸せなんだろうな……)
ぼうっと熱っぽい目でジャージを見つめる。
肩に『大森』と
(嗅ぎたい……けどこれを嗅いだら『ゆう兄ちゃん』失格な気がするし……いやでも……)
悠陽の手がゆっくりと顔の方へと持ち上げられていく。
畳まれかけたジャージの袖がするりと落ちていく。それに気づかず、悠陽はさらに鼻先へと寄せていき。
ポコン! とスマートウォッチが鳴った。
「っどぅあい!」
通知の音だった。
悠陽は我に返り、嗅ごうとしていたジャージを、しゅぱぱぱぱと手早く畳み、机ににそっと置いた。
それからジャージへむけて勢いよく頭を下げる。
「すいやせんっしたっ!」
胸に手を当てる。心臓がバクバクと鳴っている。
息が荒い。
(や、やべー! 一線を超えちまうとこだった……!)
悠陽は焦りまくっていた。
もっとも、その一線を迷うことなく超えていった女もいる。軽やかにボーダーラインを飛び越えていくフロントランナー、美桜。彼女は、なんなら悠陽のタオルで全身を拭いているまであった。
それに比べれば未遂だった悠陽は可愛いものだったが、本人としては罪悪感を覚えてしまい。
(はぁ……こんないけないことで心臓に負荷かけちまうとか……俺、なにやってんだ)
スマートウォッチの通知を確認する。
「って、あれ?」
想像とは違う通知が届いていた。
美桜からのメッセージだった。
「えと、『間違えてタオル持ってきちゃったから洗濯してから返すね』、ってあるけど……」
リビングをきょろきょろ見わたす。
確かにタオルがなかった。
欲しいものが無い時は気付けるが、必要としていないと注意すら払わなくなるのが人間というものだ。
それは悠陽だけではなく美桜も同じで。
「美桜ちゃんもジャージ忘れてたよ、あとで取りに来てね……っと」
返信を終えたスマホを放る。
「はぁ、こっそり匂いを嗅ぐとかさぁ」
悠陽はソファにどかっと倒れ込んだ。
「やっぱりよくないよなぁ~」
全くもってその通りである。
悠陽みたいに反省しろ美桜! ドスケベ女!
そんな天の声が聞こえてきそうだった。
「……にしても、疲れたなあ……」
悠陽はソファでぐでーっと溶けてしまう。
買い物だけで筋肉痛になっていた先週よりは体力が戻ってきたとはいえ、フィットネスゲームをするのは、悠陽にとっては激しい運動だった。
(いや、ゲームだからこそ、疲れを忘れてやっちゃうんだろうなあ)
楽しいけど鍛えられる! それは一見、いいことでもあるけれど、ツラさを忘れるのは肉体にとっては良いことばかりでもない。
無理をさせすぎてしまう危険性があるからだ。
本当は身体は「もうむり!」と泣きべそをかいていても、「たのし~!」という気持ちがそのサインをかき消してしまう。
(ああ、そうだ……プロテインを飲むといいんだっけ……)
悠陽は重たい体で、のたのたと歩いてキッチンの戸棚を開ける。
パッケージにゴリラの写真が使われた袋を取り出した。
両親が買い置きしてくれたプロテインだった。
「って、おもっ! これ何キロだよ……5キロも!? トレーニング後にトレーニングじみたことをしなきゃいけないのかよ!」
それからシェーカーも取り出す。
プロテインは水で溶かして混ぜるものだということだけは、悠陽でも知っていた。
でも飲んだことはなく。
「なんかプロテインって美味しくなさそうなんだよな~」
マッチョたちが己の肉体美を磨くために苦しみながら飲むもの、というイメージを持っていた。
(背に腹は代えられないって言うし。筋肉をつけるためだ……俺もがんばって耐えて飲もう)
悠陽は、げんなりとした顔でプロテインの袋を開けた。
中には大量の粉状のものが入っており、埋もれるようにしてスプーンが刺さっていた。
「えーと、シェーカーにスプーン2杯ぶんのプロテインを入れます、と」
慣れない手つきでプロテインを入れていく。茶色い粉がパラパラとこぼれてしまった。
「甘い匂いだな……そんで、これに水を入れて振ればいいのね」
説明通りにシャカシャカと容器を振る悠陽。
すると、なんだか泡が立ってきて、色も全体的に茶色くなってきて、自分の想像していたものとは違う感じがしてきて。
「これで……合ってるのか?」
出来上がったのは泡立ったココアのような何かだった。そして、予想以上にドロッとしている。
失敗、の二文字が悠陽の頭をチラつく。
しかし。
(ええいっ、これも身体を強くするため!)
「いただきますっ!」
悠陽は意を決してぐいっと行った。
未知への恐怖に耐えるように、まぶたはギュッと閉じられている。
「……あれ?」
目がゆっくりと開かれた。
ひとくち、また一口と進んでいく。
「おいしい……!」
悠陽は自分の偏見が目を曇らせていたことを察した。
「甘すぎないし、見た目ほどのど越しも悪くないし……味もちゃんとココアって感じだ」
調べてみると、最近のプロテインはどれも美味しくて当たり前になっているらしい。
「ほえ~、我慢しながらって感じじゃないんだなあ。こんだけ美味しくて筋肉も付きやすくなるなんて。いい時代だなあ」
しみじみと、自分が古い時代の人間だったと感じる悠陽。
と、スマホをスワイプする手が止まる。
「んお? 筋トレ後はプロテイン……だけじゃない?」
目が留まったのは記事の一文。
「ストレッチすると、よいでしょう?」
調べてみるとペアでのストレッチの方が効果が高いらしい。
ペア、ときたら悠陽に思い浮かぶのはただ一人。
「するかぁ、ストレッチ。美桜ちゃんには手伝ってもらおう」
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