幕間 美桜⑤ クセになっちゃう、ゆう兄ちゃんの匂い

(これがゆう兄ちゃんの匂い……タオルに染みこんだ汗の……くんくん……)


 リビングにて。

 悠陽がシャワーを浴びているのをいいことに、悠陽のタオルに顔をうずめていた。


(……すんすん……)


 ひと嗅ぎして、顔を離す。

 もう一度、顔をうずめて。


(すんすんすん……)


 ぷはっ、と息を吐いてからもう一度……と行きかけたタイミングで、美桜は我に返る。


(い、いけない……こんなことしちゃいけない!)


 大森おおもり美桜美桜は匂いフェチだった!


(いけないって、分かってるのに……)


 美桜は誘惑に抗い、悠陽のタオルを顔から遠ざけようとする。

 ポイっと放ってしまえばそれで終わりだ。

 もしくは洗濯機にかけてしまえば、こんな葛藤と戦わなくて済むのだが。


(やめられない、止まらないっ……!)


 美桜はスポーツタオルの端っこを掴んで、遠慮がちに、だがしっかりと匂いを嗅ぐ。


(ああ、この匂い、懐かしい……)


 特定の匂いによって記憶が呼び起こされる現象を『プルースト効果』と呼ぶ。

 語源はフランスの作家プルーストの『失われた時を求めて』という小説。主人公がマドレーヌを紅茶に浸したさいに広がった香りで幼少期を思い出す場面があるのだ。

 美桜はいま、プルースト効果によって幼き日々を思い出していた。


(追いかけっことかボール遊びとか、たくさん汗かいて遊んだっけ。楽しかったなぁ、あの頃も)


 くんくんと匂いを嗅げば懐かしい記憶がよみがえる。


(あの頃からゆう兄ちゃんにしがみついて、いい匂いだねって笑ってて……てっきり柔軟剤だとばかり思ってた。でも違うんだ)


 美桜はタオルをギュッと抱きしめる。


だったんだ)


 ────などと過去に浸っていると。


「はー、さっぱりしたー」


 悠陽がドアを開けてリビングへ入ってきた。

 濡れた髪をバスタオルでワシワシと拭いていて、顔は伏せられている。

 美桜は、悠陽が入ってきたことに気付き、自分が今抱きしめているタオルが誰のものなのかを改めて思い出し。

 どう見られるかを考えて、慌てた。


「ばわっわああわ!」


 美桜が奇声を上げてしまう。

 そのせいで悠陽はバスタオルから顔を覗かせてしまった。

 何が起きているのかを分かっていない悠陽は呑気に美桜へと尋ねる。


「ん? どうしたの美桜ちゃん」

「な、なな、なんでもないよ!? どうもしてないよ!?」


 美桜の声がプルプルに震えている。


(ま、まずいっ……咄嗟にタオルを後ろ手で隠しちゃった……!)


「そう? なんか驚いてたみたいだけど」


(あ、危なかった……バレずにすんだ……)


「そうだ、美桜ちゃんもシャワー浴びてく?」


 悠陽がペタペタと足音を立てて近づいてくる。

 美桜はそこで自分の失策に気付いた。


(しまった……! 隠しちゃダメだったじゃん! 隠さなければ『これから洗おうと思ってた』とかなんとか、言い訳ができたかもしれないのに……!)


 焦っている間にも悠陽は近づいてくる。


(一度隠してしまったら、もう言い訳できないっ……! どうして隠したの? って訊かれたらおしまいだっ……! 匂いを嗅いでたなんて正直に言ったら私がヘンタイだって思われちゃう!)


 思われる、というか、ヘンタイそのものだったのだが、あいにくと訂正をできるものはここにはらず。


(ど、どうしよ。どうしたら持っているタオルがバレないかな!? 隠す? いや、でもそんな場所なんて……そうだ────)


 追い詰められた美桜の脳は黄金の輝きを放ち、最高のアイデアを導き出した。

 それは。


「ご、ごめんゆう兄ちゃん! ちょっと下着がズレちゃったからあっち向いててくれるかなっ!」

「えっ!? あっ!? はい!!!」

「ごめんねー、動いたからかなー」


 棒読みで時間を稼ぎながら、美桜は次の作戦を実行する。


 ──あろうことか、悠陽のタオルを胸元に詰め始めた!


(隠そうにも、スポーツタオルはポケットに入らない。なら、服の内側に隠すしかないよねっ!?!?! これが正解だよね!?!?!?)


 どう考えても不正解まっしぐらだった。

 だが走り出したら止まれないのが暴走機関車・美桜という女だった。


(木を隠すなら森の中! 盛り上がりを隠すなら盛り上がりの中っ! つまり隠すべきは、私の体で盛り上がってる場所……つまり、胸っ……!!!)


 美桜は最速で間違った方向へと突き進んでいく。


(私の胸がこうして活躍する日が来るなんて……!)


 美桜は自分の胸が大きいことを気にしていた。

 しかし、こうして役に立つ機会──美桜の主観では少なくともそう──が来るとは。


(これなら怪しまれずに切り抜けられるっ……私の胸は、今日この時のために大きくなったんだ!)


 スポーツタオルくんは、幸か不幸か、体操服の胸元にみちみちと入ることができた。


「ご、ごめんねゆう兄ちゃん~、わ、私は自分の家でシャワー浴びてくるからまたあとでねそれじゃっ!」


 美桜は早口で別れを告げると胸元を押さえながら悠陽の隣を通り抜けていく。テーブルに置いたスマホを掴んで玄関を飛び出る。

 慌てて同じ階の自宅に飛び込む。


(あぶなかったあぶなかったあぶなかった!!!)


 美桜の心臓はドクドクと脈打っていた。

 フィットネスゲームをしていた時と同じくらい、いや、それ以上の心拍数だった。


(恐ろしい……我を忘れて匂いを嗅いじゃうなんて……このタオル、魔力を持っているっ……! このタオルは……隠してしまわなければいけないっ……!)


 どこに? と考えて、美桜は脱衣所へと向かう。


「せ、洗濯機に封印しよう! 洗っちゃえばなんとかなるよね!」


 そうして美桜はタオルを洗濯機へと放りこんだ。

 ようやく誘惑を断ち切ることに成功したのだった。


(これで安心だ……ふへぇ……)


 運動のときとは違う、いやーな汗がじとりと垂れてくる。


「シャワー、浴びちゃおっか……」


 なんだか気疲れした美桜は熱いシャワーをしかと浴びる。

 お湯が白い肌に打ち付けられ、滑るようにして流れていく。水滴が、胸の形をなぞるように曲線を描いて落ちていく。


「はぁ……私、どうしてこんなことを……」


 昔なら無邪気に『ゆう兄ちゃん』の匂いが好きー! と言えたかもしれない。

 けれども美桜には、今の自分がそうしたら許されるようには思えなかった。


(ううっ……年下になった幼馴染の匂いを嗅ぐなんて……そんな)


 美桜が悠陽の匂いに反応してしまうのはプルースト効果ゆえだろうか?

 それとも、もっと生物として単純な……。


(発情期の動物じゃないんだから、しっかりしろ、私!)


 美桜は決意と共にシャワーをキュッと止める。

 それから風呂のドアを開けて。


「あっ」


 美桜はミスに気付いた。


(慌ててたからバスタオル用意するの忘れちゃった)


 いつもは部屋から持ってくるのだが、今日はいつものような余裕がなかった。


(部屋に戻る? でも家の中がびしょびしょになっちゃうし……ハンドタオルで体を拭く……? いや、でも小さすぎるしな)


 美桜は素っ裸で困ってしまう。


(ここにまだ洗濯してないタオルなんて都合よくあるわけ……あれ?)


 美桜の視線が一点に吸い寄せられる。

 洗濯機へと。

 


(ダメよ美桜! しっかりして! さすがにそこまでやったらダメっ……!)


 とは、思う美桜だったが。

 現実としてシャワーを浴びたあとの体温は徐々に奪われつつあり。


(ううっ、寒い……そういえば昔、ゆう兄ちゃんに怒られたなあ。早く体を拭きなさいって)


 一緒に風呂に入ったことはないが、『あらしパーティー』の日に、悠陽の家で風呂に入ったことはあった。

 身体を拭くのが面倒でリビングにやってきた美桜に悠陽はバスタオルをかけてあげたのだ。


(他人に裸を見せるもんじゃないよってたしなめられたっけ……。うう、あの頃の私、羞恥心なさすぎじゃない!?)


「へくちんっ!」


(うう……懐かしがってる場合じゃなかった……)


 美桜は現実逃避をやめて、今に向き合うことにする。


(仕方ないよね、うんうん。風邪を引いたらゆう兄ちゃんの面倒も見られないし! そう、これは仕方ないこと……!)


 美桜は洗濯機の中から悠陽のタオルを取り出し、そっと体へ押し当てる。

 肌に乗っかっていた水滴がすっとぬぐわれていく。

 腕を拭き、足を拭き、それから下腹部、胸元へと徐々に上へと。


(なんか……ゆう兄ちゃんの匂いがするタオルで体を拭いてると、なんかこう、いけない感じがしてくるなぁ……はっ!)


 美桜は髪を拭きながら気付いてしまった。


(これって実質、ゆう兄ちゃんに体を拭かれているのでは?)


 そんなことはない。


(あちこち触られちゃってるってことなのでは!?!?!)


 そんなことはない。

 だが、美桜にとってはそうとしか思えなくなってしまい。

 バクバクと鼓動が高鳴るのを感じる。

 冷えかけていた体に熱が灯る。


(あーもー! さっさと返そう!)

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