くものいと

はるより

本文

 その日は、風も吹かないよく晴れた日であった。

 まだ朝の気配の残る空気の中、紡は自宅の門を出る。

 頭はぼうっとして思考が巡らず、瞼は重いままだ。


 深鈴との縁談を断って以来、母親は紡に恨み言を言うことが増えた。

 紡と朝夕家の事を思って、自分は半生を費やしてきたのに。恩知らず、家族を棄てるつもりか。


 少なくとも幼い紡の知っていた母親は冷静で、知的な人間だった。

 その母親が半ば癇癪を起こしながら言葉を投げつけてくるその様は、紡にとって心的外傷にもなり得る光景である。


 母を変えてしまったのはきっと自分なのだろう。

 紡は己の行いが間違っていたとは思わない。

 それでも畏れを抱く相手が怒声を上げるのを聞くと、その夜は心臓がばくばくと鳴り、思考がとめどなく流れ、中々眠りにつくことができなくなるのだ。


 ざりざりと、路上の砂が靴底を削る。

 民家の屋根に集まった雀がちゅんちゅんと囀る。

 少しずつ高度を上げる陽の光が、身体を表面から温め始めたようだ。


 周りを取り囲む全てのものに現実味がない。

 紡はひどく緩慢に見えるその世界が、自分を取り囲む曇ったガラス板で隔絶された先にあるようにすら感じた。


 眠い。

 紡は、白んだ景色を眺めながら歩を進める。


「あれ……」


 ふと、我に帰った時。

 紡が立っていたのは軍学校へと続く大通りではなく、かつて通い慣れた外れの小道であった。

 どうやら、無意識がここへと運んできてしまったらしい。


 はっとした紡が、慌てて時間を確かめる。

 まだ暗い商店の中に佇む柱時計は、午前7時半過ぎを指していた。

 今からでも、走ればぎりぎり始業時間に間に合うだろう。


 確か一限は戦術の授業だったか。

 教師は例に漏れず厳しい人で、つい先週は居眠りした生徒の鼻面を拳で殴りつけていた。

 万が一にも遅れたら自分も同じ目に遭うだろうか、と思うと気が滅入る。


 胸が詰まって、ため息が漏れた。

 後頭部がちりちり熱くなるような感覚がして、眼窩の奥がじわりと痛んだ。

 子供のように泣き喚いてしまいたい。

 例えそれが何の救いにも、解決にもならないとしても。


 いや、そんなことを考えている暇があるのならば、学校へ行かなければ。朝夕の先人が積み上げた信頼を崩すわけにはいかない。

 ……そもそも、朝夕の看板はそれ程にも価値のあるものなのか?

 名ばかりの武家で、うず高い矜持を掲げるばかりの薄っぺらい『お家』が?

 名を連ねる人々を守る為に戦場に立つわけでもない、形骸化した武士の家系に何の意味がある?


 どうして自分は朝夕である事を誇りに思っていた?

 ……多分それは、父から受け継ぐものだったから。

 今の自分は、父である朝夕綴を誇りに思えるだろうか。

 幼い頃の甘く優しい記憶が、先日の澪の言葉に塗れてどろどろと腐り落ちてゆく。


 どうして自分は今、こんなにも不安定になっている?朝夕紡という人間はこんなものだったか?

 自己像と思考が乖離していて、まるで自分が人の形をした殻の中に詰められた粘土のように感じられる。


 寝不足が祟っているのだろうか。

 答えの出るはずもない問いや煩雑な言葉がぐるぐると渦を巻くばかりで、思考がまとまらない。

 ……気がつくと、紡の足は学校とは真逆の方向へと向けられていた。


 道場の後輩たちは、今の自分がこんな有様であると知ればがっかりするだろう。

 彼らは主将として稽古場に立っていた朝夕紡の事を、純朴に慕ってくれていた。

 目先の難事から逃避を図ろうとする男の、何と情けないことか。


 親友の麟だって、きっと幻滅するだろう。

 そしてその時、彼は対等だと思っていた友人を失い、また孤独な世界に戻ってしまうのかもしれない。

 このような背中を彼らに見せる前に道場を去ったことが、唯一の救いか。


 規律を守る事は美徳と教えられてきた紡にとって、習い事や与えられた役割をサボるというのは犯罪にも等しい行いだった。

 だから同年代の若者にとっては何でもない行為だとしても、紡はまるで自分が救いようのない屑に落ちぶれてしまったような気がした。


 取るべき行動は明らかなのに、それに背を向けるのはこんなにも心苦しい事なのだと知る。

 だが、今さら引き返せるはずもない。

 少しずつ日の高くなっていく空の下を、とぼとぼと歩く。

 そんな彼の行手には、桜の花弁が散り始めていた。


 *****


 桜花神社には今日も参拝客の方々が訪れています。

 絃のお役目はその皆さんのお話を聞いて、桜が綺麗に咲くようお祈りすること。

 お客さんがいない時は、境内に散る桜の花弁を箒で掃き集めること。


 掃いても掃いても際限なく降り積もるものですから、意味が無いことのようにも見えるかも知れません。

 絃たちが集めた花びらはお堂の中の火に焚べて、出来た灰を土と混ぜ、桜の木にお返ししています。

 こうする事で灰は樹々の糧となり、また綺麗な花となって咲く事が出来るそうなのです。


 少なくとも絃にとっては、とてもやり甲斐のあるお仕事。

 桜と、桜の帝都のために役立てるのであれば、これ以上に嬉しい事はありません。


 さて。そうこうしていると境内から通りに伸びる石の階段から、人の足音が聞こえてきました。

 まだ少し距離はありますが、あの階段を登っているという事はこの桜花神社に用があるという事です。

 絃は心の中で、がんばるぞ、えいえいおー!と気合を入れ直し、手にしていた竹箒を邪魔にならないところに仕舞いに行こうとしました。


 けれど、ふと……聞こえてきた足音がとても懐かしいものであることに気付いて、思わず立ち止まります。

 少し足早で、持ち主の几帳面さが伝わってくる一定のそれを、絃が間違えるはずありません。


 絃は居てもたっても居られなくなって、竹箒をその場に落として走りました。

 背中の方でからんからんと、石造りの参道を箒が転がる音がします。

 後で依さんから怒られるかもしれませんが、今この時に限ってはそんな事は気になりませんでした。


 階段の最上段まで辿り着き、下を見下ろします。思った通り、そこには一人の男の子が居ました。


 つむです。

 雀の尾のような結い髪はありません。

 そして見慣れた袴ではなく、軍服のような制服を着てはいますが、彼に間違いありませんでした。


 絃はもう半年以上も前に途切れた日課の通り、つむに飛び付いてやろうと思っていたのですが……その顔を見た途端に日頃寂しく思っていた気持ちが弾けてしまい、勢いがつきません。

 つむも絃のことに気付いたようなのですが、何故か少し呆然としたような顔をしていました。


 そして、絃はおどろきました。

 つむの桜が……心の花が、今にも枯れてしまうのではないかと思うほどに萎んでしまっていたのです。

 絃の大好きな桜のそのような姿を見て、胸がきゅっと苦しくなるのを感じます。

 表情を見ても、彼がとても疲れていることがわかりました。


 会わない間も手紙でやり取りはしていましたが、文面にない事は絃には分かりません。

 そして格好付けたがりのつむは、辛い事や困ったことを手紙に書くとも思えません。

 実際、送られてきていたのは絃のことを心配する内容ばかりでした。


 絃は、つむの居るところまで階段を駆け下ります。

 つむは何かを言おうとしていましたが、絃は黙って腕を引っ張って境内へ戻ることにしました。

 つむは頭で考え過ぎてしまって、立ち竦む事があるのを絃は知っています。

 だから、今はこうすることが必要だと思ったのです。


 *****


「はい、どうぞ。」

「……ありがとう」


 お盆に載せたお茶とお茶菓子を持って戻ると、つむは社務所の軒先に座って目を瞑っていました。

 声をかけながらお茶を差し出すと、つむは小さく微笑んで受け取りました。


 先ほどと比べると、少しだけ桜の花も元気を取り戻したように見えます。

 つむがしょげてしまっている理由はまだ分かりませんが、ここでの時間がつむの助けになっているのだと分かり、ほっとしました。


 つむは半年前に比べると少し身長が伸びて、体格も良くなったようです。

 きっと警察学校での訓練に真面目に取り組んでいるのでしょう。


「お茶、熱いので気を付けてくださいね。」

「うん」


 少しの間、それ以上の言葉を交わさずに並んで座っていました。

 ふーふーとお茶に息を吹きかけて冷ます音と、風が桜の枝葉を揺らす、さらさらという心地の良い音だけが聞こえてきます。


「……つむ、何かありましたか?」


 こちらから訊くべきか、とても迷ったのですが……つむが桜花神社に来たのはきっと、助けを求める気持ちがあったからなのでしょう。

 それは彼の桜と表情が物語っていましたし、絃のお役目は参拝者のお話を聞くことです。

 それに今のつむは放っておくと、結局何も言い出せないまま帰ってしまう気がしたのです。


「その……急に色んなことが重なって降ってきて。ちょっと疲れたんだ。」


 つむは、空になった茶器を傍に置いて言いました。

 絃が黙って聞いていると、つむは続けます。


「昔は見えなかった色んなものが見えてきた。自分の役目の大きさも知っているつもりだったけど、それだけじゃなかった。……自分でやろうと決めた事も含めて、何一つ上手くいかない」


 その後も具体的な内容はありませんでしたが、つむはぽつりぽつりと胸の内を明かしてゆきました。

 俯いて話すつむの姿が、はじめて彼と言葉を交わしたあの日の姿と重なります。

 大切な人を失ってしまったあの日のつむも、今のつむと同じように何もかもが嫌になってしまっていたようでした。


「話して下さって、ありがとうございます。」


 ぎゅっと口を結んだつむに、絃はお礼を言いました。

 きっと話しにくいことだったと思います。

 辛いことは抱えている事も勿論苦しいのですが、思い返す事も同じかそれ以上に苦しいですから。


「つむは頑張り屋さんですから。周りの期待に応えられるようにって、ずっと努力してきたんですね」

「……そんな風に褒められたものじゃない。自分の意思で生きていなかっただけなんだ、きっと」


 周りの言葉だけ聞いて生きるのは、気楽だったよ。つむはそう言って力無く笑います。


 他でもないつむ本人の言葉なのにどういう訳か、それが『絃の大好きなつむ』と『つむと絃が一緒に過ごした時間』を否定されているようで、心がちくちくと痛みました。


「これから、どうするんですか?」

「どうもしない。明日からまた学校に行って……やるべき事をやるだけだ。」

「やるべき事……」


 それは、朝夕の長男として帝都警察軍に入るために勉強する、ということでしょうか。

 確かにそれはつむにとって、あるいはつむを取り巻く人たちにとって重要なことでしょう。

 だけどそれに近づく度につむ自身が擦り切れてゆくというのであれば……絃は素直に送り出せるほど、大人ではありませんでした。


「つむ自身はどうしたいんですか?」

「どう、って……?」

「つむの中には今、色んな悩みがあると思います。簡単には解決できないこと、どうしようもないこと。それらを全部忘れて……なんでも願いが叶うとしたら、何がしたいですか?」


 絃には、奇跡を起こす力なんてありません。

 魔法だって使えないし、つむを苦しめる人を懲らしめて回れるような強さもありません。


 それでも、絃はつむのためになら何だってしてあげたかったのです。

 彼が幸せになるために、ちっぽけな自分に何ができるのか少しでも知りたかったのです。


 それでも『自分は父の背を追うのだ』という答えが返って来たら……それ以上は何も言わずに見送るのだと決めてから尋ねました。


「……。」


 つむは空を見上げました。

 桜の枝葉の隙間から見えるのは、よく晴れた空とその向こうに浮かぶ『霧の都』です。

 絃たちの生きるこの『桜の帝都』とまるで鏡写しになるように存在する世界。

 絃にも霧の都から来たお友達が居ますが、あの空の向こうに沢山の人々が暮らしていると言われると、未だに少し不思議な気分になります。


 遠い場所。異なる世界。

 桜花教も桜の花も存在しない世界なんて、絃には想像もつきません。

 つむは、そちらに目を向けたまま言いました。


「……何もかも置き去りにして、逃げてしまいたい。朝夕の名前なんて、誰も知らない場所へ。」


 きっと、本心なのでしょう。

 いつも男らしくあることに拘っていたつむにとって、それは過去の自分に対する裏切りのような言葉です。


『俺は……父さんのような人になりたい。その為なら、どんな努力だって惜しみはしない』


 そう誓っていた少年のつむ。

 絃だって覚えているのですから、本人が忘れるはずありません。

 自分が放った言葉に傷付けられたつむは、頭を抱えて蹲ってしまいました。


「……いいじゃないですか、逃げちゃっても。」


 絃は、丸まったつむの背中に頬を寄せて言いました。

 これが、嘘偽りのない絃の本心です。

 格好つける必要なんてありません、いくら情けなくても構いません。

 絃は大好きなつむが笑って過ごしていられるのなら、その名前が朝夕だろうが何だろうが関係ありません。


 手を伸ばしてつむの頭を撫でます。

 これは慰めじゃなく、自分と向き合う事のできたつむへの『よく出来ました』の気持ちです。


「絃はつむのその気持ちが、悪いことだなんてこれっぽっちも思いません。だから、つむが望むなら……絃にもお手伝いさせて下さい」


 例えそれが、他人だからこそ言える無責任な言葉だったとしても。

 自分自身すら肯定できないつむのことを、絃だけは認めてあげたかったのです。


「何があっても……例え帝都中の桜が枯れ落ちたとしても、絃は最後までつむの味方でいると約束しますから。」


 頬に伝わる体温を感じながら、絃はつむの反応を待ちました。


 少しの時間が経ち、つむはゆっくりと身体を起こしてこちらを見ました。

 瞼は腫れていないし鼻も赤くないので、泣いてはいなかったようです。

 それは『大人になったから』なのでしょうか。

 それとも『子供でいられなかったから』なのでしょうか。

 どちらにせよ、それはつむの決意の表れだったのでしょう。


「……ひゃっ!?」


 そんなことを考えていると不意につむが手を伸ばし、絃はぐいと引き寄せられます。

 気がついた時には、絃はつむの腕の中にすっぽりと収まっていました。

 ぎゅっとつむの腕に力が込められ、少し息が苦しいくらいです。


「つむ……?」


 絃はおどろいて顔の見えないつむへと呼びかけますが、返事はありませんでした。

 訳もわからずにじっとしていても、服越しにやけに早い鼓動の音が伝わって来て落ち着きません。

 絃の心臓もそれに釣られてしまったのか、ばくばくと早鐘を打ち始めます。

 どうしたら良いかがわからず、そっと服の胸の辺りを掴んで引っ張りました。


「あの、つむ……」

「好きだ」


 それは、まるで縋るような声でした。

 ……これは所謂、告白というものなのでしょうか。

 恋物語の小説でそういう場面を読んだ事がありますが、物語の中の男女が交わしていたそれとは全く違っています。


 大好きな人から向けられた好意に、勿論嬉しい気持ちはあります。

 恥ずかしがり屋の彼がこんな風に口に出して伝えてくれたのですから、きっとつむのくれた『好き』は、以前に麟が言っていた『特別な好き』や『らぶ』というものなのでしょう。


 ただ、絃の中では喜ぶ気持ちよりも、彼がこの言葉を残して消えてしまうんじゃないか、という不安の方が大きかったのです。

 それ程までに、つむのそれは切羽詰まった声色をしていました。

 咄嗟に返事を出来ないままでいると、つむは続けて言いました。


「困らせてごめん。けど、絃さえいれば……絃だけのために生きていいのなら、きっと俺は何だってできる」

「……。」

「一緒に来てくれ、絃。……遠い場所まで」


 遠い場所。

 漠然とはしていても、それがでたらめや冗談から来る言葉でないことは十分に伝わって来ました。


「残酷な事を言ってるのは分かってる。俺は今、目の前の人間かその他の全てか、どちらかを選んで捨てろと言っているんだ。」


 つむの体と声は、ひどく震えています。

 きっと彼の心は細い命綱一つで繋ぎ止められているような状態なのでしょう。

 それが今、絃の手に委ねられているのです。

 切られてしまえば、底なしの暗闇に真っ逆さま。


 本当に選ばせる気があるのかと尋ねてみたいくらいに、今のつむはか弱い存在でした。

 ……ですがあいにく、選択肢などは最初から無かったのです。


「良いですよ、つむ。つむと一緒に居られるなら、望むところです。」


 絃はそう言って、つむを抱きしめ返します。

 数秒の後に、つむが深く安堵の息を吐くのが分かりました。


 依さんや桜花神社のみんな、参拝客の皆さん、お友達……それから、麟。

 勿論、気に掛からない訳がありません。

 みんなと会えなくなるとしたら、それはとても悲しい事です。

 だけど今ここでつむの手を振り払うことなんて、絃には出来そうもありませんでした。


 腕の力が緩んで、絃は解放されました。

 もう少しくっついたままでも良かったな、と思ったのは内緒です。


 つむはと言うと、今になって先程までの言動を自覚したのか、辺りを見回しながら赤くなったり青くなったりしていました。

 でもそんな彼の姿は、随分と絃の知っているつむらしくて、とても愛らしいものです。


 心の桜も、とっても綺麗に咲いています。

 おまじないをしなくても、つむの桜はこんなにも大きく美しく咲くことができるのです。


 それが何だかとても誇らしくて、絃はくすくすと笑いました。

 するとつむは自分の百面相を笑われたと思ったらしく、照れ臭そうに俯いてしまいました。


「お茶のおかわりを入れて来ますね、つむ。会えなかった間、溜めてた話題がうんとあるんですから!」


 絃は急須を手に取って台所に向かいます。

 ここからは、寂しかったり辛かった分を取り戻す時間。

 誰かが言っていた通り、ふたりセットがいちばん!なのだと、改めて感じたりして。


 少なくとも、この時の絃の中には後悔の念などはありませんでした。


 *****


 楽しい時間は早く過ぎるものです。

 気がつけば日も傾きはじめ、カラスの鳴き声が聞こえて来ます。

 一年前は『また明日』と言って笑顔でお見送り出来ていたのですが……今はそうもいきません。


 平気なふりをしていたのですが、寂しく思っているのが悟られてしまったのでしょうか。

 つむは別れ際に、また絃のことを抱きしめました。

 今度はさっきとは違い、柔らかく包み込むようにです。


「また、近いうちに会いに来くるから」


 そう言うつむの声がひどく優しく聞こえたのは、絃の思い違いでしょうか。

 石段を降りて少しずつ小さくなってゆくつむの背中を見送りながら、そういえば散々抱きつきはしていたけれど、抱きしめられたのは迎撃戦の後に二人で泣いたあの日以来だった、なんて考えていました。


 今日は一日中つむと喋っていて、あまり巫女としてのお務めを果たせなかったから、明日は頑張らないと。

 そう思いながら社務所に戻ろうと振り返ると、少し離れたところに依さんが立っているのが見えました。


 依さんはどこか遠い目をしていて、その心の桜は絃が見た事のない色をしていました。


「……依さん?」

「ああ、絃。もう良いの?」

「はい。また来てくれるって言っていましたし、満足です!」

「それは良かったわね」


 微笑む依さんは、いつも通りに見えます。

 花の色も、今はもう綺麗な桜色。

 さっきのは、絃の見間違いだったのかもしれません。


「どうかした?」

「いえ、何でもありません」

「そう?なら良いのだけれど」


 依さんと並んで境内を歩きます。

 何でもない、桜花神社の日常です。

 しかし先ほどつむと約束した事を思い出すと、こんな日常ともいつかはお別れする事になるのだと、少し切なくもなりました。


「絃」

「なんですか?」

「今、幸せ?」


 どうしてそんな事を聞くのでしょう。

 依さんの言葉の意図は分かりませんでしたが、今日は大好きなつむから『好き』を貰った記念日です。幸せじゃないはずがありません。


「はい!とっても!」

「ふふ、そう。なら良いのよ。」


 依さんは優しく笑って、指で絃の髪を梳きました。心地良いので、絃はこうされるのが大好きです。


「絃。あのね、もし……」


 依さんは何かを言いかけて、そこで口をつぐみました。

 しかし絃がその続きについて言及出来なかったのは、声を掛けるよりも先に依さんが背を向けて歩き出してしまったからです。


「もう随分遅くなってしまったわね。早く戻らないと」

「……はい。」


 絃は、不思議に思いながら依さんの後をついて行きます。

 ふと目を向けた先に、境内の敷地からは少し離れたところに立つ桜の木を見つけました。

 その木には枝葉ばかりが生えていて、桜の花弁は全て落ち切ってしまっています。

 思わず立ち止まり、そちらを眺めました。


 ……帝都の桜の木に、花が枯れ落ちてしまう個体が現れ始めたという噂は以前から聞いていました。

 それでも、噂に聞くのと自分の目で見るのとは全然印象が違います。

 緑色ばかりが目立つその桜の木は、どこか不吉なものとして映りました。


 ……桜のない場所に行くかもしれないというのに、こんなに弱気では困りものでしょうか。

 絃はぶんぶんと頭を横に振って余計な不安を吹き飛ばすと、もう随分先へ行った依さんを追って走るのでした。

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くものいと はるより @haruyori

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