第76話
どの出来事を書いたのか、洸次郎は想像がついた。目を背けたいが、兄の言葉を知りたくないと言えば嘘になる。
――俺のせいで、父は死にました。洸次郎に陶芸をやらせたいと、俺は父に頭を下げました。そのせいで父は怒りに任せて大量の酒を飲み、父は死にました。洸次郎の結婚が間近に迫っていたのに、俺は弟の平穏な暮らしを脅かしました。
モノの記憶で見た。兄が父に頭を下げるところを。そんな兄を、父親は頭ごなしに叱りつけ、取り合おうとしなかった。
父親の怒りは収まらず、酒で無理をして命を落としてしまった。時機が悪く、翌日に洸次郎の妻となる女が村に来てしまった。
祝言は時期を改め、最低限の形だけで行った。
図らずも忌中になってしまったが、平穏な暮らしが脅かされたわけではないし、兄のせいでもない。
平穏な暮らしが脅かされたとは、当時は思っていなかった。モノの記憶を見るまでは。
――父の命が絶たれるきっかけをつくってしまった俺は、「心の栄養」を吸収することができなくなってしまいました。自分ではない自分がひとつの体にいて、もうひとりの自分の方が勝手に酷いことをするようになりました。
完成した絵皿を全て自分で壊してしまったり、母や弟につらく当たったり、空腹なのに飯を食べることを拒んで体が動かなくなったり、もうひとりの自分がおかしな行動をするようになりました。
洸次郎は手紙を閉じた。これ以上読むことができない。
兄は、モノの存在を知らなかった。亡くなった父親がモノと化し、非道を行ったことを知る由もなく、モノに取り憑かれた状態で自殺させられた。
「洸次郎さん? ……洸次郎さん!」
透瑚に肩を揺さぶられ、子犬の織部が鳴き
「……兄の人生って、何だったんですか? 親父に虐げられ続けて、早死にさせられて、何も成せなくて……俺は兄に…兄ちゃんに、何もできなかった……! 近くで見ていたはずなのに……」
透瑚は否定せず、肯定もせず、洸次郎の感情の下手な吐露に耳を傾ける。
「懐かしいものを見つけたんです。新三郎さんが練習に焼いた小鉢です」
小鉢が、ふたつ。どちらも同じ形で、斜めに釉薬がかけられている。ひとつは緑色。もうひとつは赤色。色は違うが、どちらも同じ釉薬だとわかった。
「織部釉、ですか?」
「さすが、洸次郎さん。よく知っていますね」
「兄が教えてくれました。織部釉は本焼きの温度の上げ下げや時間で、緑にも、赤みがかった
しばらく思い出せずにいた兄との思い出が蘇り、饒舌になる。無意識のうちに、楽しい思い出になっていたのだと気づいた。
「洸次郎さんは、どちらの織部釉が良いと思いますか?」
透瑚に聞かれ、洸次郎はしばし悩んでしまった。素直に答えることにする。
「どちらも違う良さがあります」
「新三郎さんも、そのように言っていました。すみません、それだけの話です」
それだけの話。透瑚は多くを語らなかった。
洸次郎の兄、新三郎の人生は、真実を知った洸次郎には、父親に翻弄されて潰された人生に見えてしまう。
兄には、郷里に帰らず多治見で穏やかに送る人生もあったはずだ。それはきっと、多くの人の目には幸せに見えたはずだ。しかし、兄は郷里に帰り身近な人と関わることが難しい暮らしを選んだ。洸次郎に会い、手を差し伸べるためだけに。
兄にとっては、洸次郎と過ごし、成長を見守る時間が幸せだったのかもしれない。
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