第73話

 心の栄養。洸次郎には、初めて聞く言葉だった。

「洸次郎さんには酷な話ですが、新三郎さんは、その……お父上に日常的に折檻されていたようです。それにより、自分の感覚が麻痺していました」

 透瑚は洸次郎に大変申し訳なさそうに話すが、洸次郎にしてみれば、過分な配慮だった。洸次郎は折檻されたことはないものの、モノと化した父親の記憶を見たこともあり、あの父親ならやりかねないと思ったからだ。

「当時、私の妻は病で伏せがちで、私は新三郎さんの弟子入りの話をはぐらかして妻の世話をお願いすることにしました。言い訳でしかありませんが、新三郎さんには心穏やかでいてほしかったのです。意外でしたが、新三郎さんは炊事や洗濯、掃除など手際良くこなし、妻も驚いていました。ただ、何かにおびえながらやっていたのが気になりました。後で妻が聞き、私にも話してくれたのですが、新三郎さんは五歳いつつのときにお父上の茶碗を割ってしまい、そのときから家事を強いられていたようなのです。陶芸への興味は、そこからだったそうです。家事に関しては、お母上が身籠みごもって動けない期間もあったので仕方なかったそうです。お母上はめでたく身籠っても、その……悲しい思いを何度もしたそうですね。それをお父上は、新三郎さんが弟や妹の生きる力を奪った、と言いがかりをつけて酷い仕打ちをしたそうです」

 新三郎と洸次郎は十五歳離れている。その間に、母親は流産や死産を何度も経験した、と洸次郎は母親本人から聞いたことがある。そのときは、もう母親は吹っ切れていたように見えたが、気持ちの整理をするまで道のりは険しかっただろう。気持ちの整理が必要なのは、母親だけではない。父親も、兄も、親族や近所の人も、虚しい気持ちを抱えても自分でどうにかするしかないのだ。それを、父親は長男にぶつけ、悪いように扱った。

「洸次郎さん……当時はまだ産まれてなかったから、弟か妹という感じになりますか。無事に産まれそうだという時機に、新三郎さんはお国を出て、多治見に来ました。自分がまた産まれてくるはずの弟か妹の邪魔をするわけにはゆかないのと、頼りない兄になることが嫌になり、かねてより興味のあった陶芸の道に進み、弟か妹に、自力で生きる兄であると見せつけ、手を差し伸べられるようになりたいと言っていました。だから、自分には時間が無い。すぐにでも弟子入りしたい、と。そこまで話を聞いて、私は新三郎さんを弟子にしました。私も妻も、息子ができた気分でした。新三郎さんは、ふとしたときに、弟か妹は産まれただろうかと気にしていました。あのような家族関係でしたし、新三郎さんは当時読み書きが得意ではなかったみたいなので、手紙のやりとりはしなかったようです」

 洸次郎が初めて聞く、兄の込み入った話だった。

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