第72話

 透瑚が窯から離れると、黒い子犬の二代目織部が、長椅子に座る洸次郎の足元にすり寄ってきた。本当に人懐こい仔である。

 洸次郎は織部を撫でたくなって手を伸ばしたが、噛まれたくないと思い直し、手を引っ込めた。すると、織部が長椅子に跳び乗り、洸次郎の手に鼻を押しつけてきた。洸次郎は、おそるおそる手を開き、織部の黒い毛に触れる。織部は目を細め、耳を垂らして、くんと鳴いた。

「洸次郎さん、お待たせしました……おやおや、本当に、新三郎さんに似てるんですね。新三郎さんも、黒い犬に懐かれていましたから」

 透瑚は、封筒の束を手にしていた。

「新三郎さん……お兄さんからの手紙です。二十通くらいあります」

 洸次郎の兄、新三郎が帰郷してから昨年他界するまで、十五年。平均すると、一年に一通は手紙を出していた計算になる。

「手紙を見られるのは、亡くなった新三郎さんをないがしろにする行為かもしれません。でも、新三郎さんが大切にしていた弟の洸次郎さんには、新三郎さんのことを知っていてほしいんです」

 透瑚は、新三郎が既にこの世にはいないことを知っている。訃報を伝えるような人は、新三郎の近くにはいなかったはずなのに。

「兄が亡くなったことを、誰かから聞いたんですね」

「ええ、人づての人づてに。注文した作品が完成せず、連絡もつかないと、仲間の間で噂になりまして。一番近くに住んでいた人が、小塚村まで足を運んでくれたんです。そのとき既に、新三郎さんは亡くなっていたそうです。逝去から、四十九日がとうに過ぎていました」

 織部が長椅子から降り、洸次郎の足元で丸くなった。

「新三郎さんは、十五のときにここ、多治見に来ました。来た、というより、行き倒れていました。近所の人もよく覚えてるみたいです。当時はまだ大樹公が国を治め、藩政が行われていた時期。倒幕運動も盛んに行われていて、世間が荒れていたと言っても過言ではありません。そんな中、新三郎さんはお国を離れて伝手も無い多治見に来ました」

 今や帝都の政府が政治を行っている時代。洸次郎も、薄ぼんやりとそんな認識だったが、兄が青年だった頃は、その前の時代だったのだ。

「初めは、皆が警戒しました。間者なのではないか、追われている身なのではないか、と。勝手に荷物をあらためようとしましたが、彼は何も持っていませんでした。怪我はありませんでしたが、手足や緩んだ襟巻の下に、古く大きな痣がありました。これはまた違う事情だと皆が思い、療養させることにしました。この人が、上州小塚村の新三郎さんだと自ら名乗るのは、寝床から起き上がれて飯を食うことができるようになったときです。かれこれ、半月は経っていました。そのときに、多治見に来た理由を聞きました。陶芸の道に進みたい、という、私の予想の候補にあった回答ですが、私は悩みました。後継者が現れることは嬉しかったのですが、新三郎さんは、その……もっと休むことが必要だと思ったからです。心の栄養を摂ることが先決だと思いました」

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