第71話
志野吉の家を出ると、黒い子犬の二代目織部が、音もなく着いてきた。光が当たると緑色に見えなくもない艷やかな黒い毛並みが、若さを物語る。
そのうち、放し飼いの鶏も着いてきた。織部は鶏に気づいても追い返そうとしない。鶏も逃げたり、逆にちょっかいを出そうとしない。洸次郎が織部と鶏を引き連れて歩いているのを見た近所の人が、「新三郎さんみたいだ」「似たもの兄弟だ」と言っていた。洸次郎が新三郎の弟だということは、もう知れ渡っている。
透瑚の家が近づいてくると、煙突の煙が見えた。窯で焼成しているのだと思うと、心の内から湧いてくるものがあった。郷里で、兄の作業小屋を訪ねたときと同じ感覚である。
「おはようございます」
保原さん、透瑚さん、師匠、親方……いかに呼んだら良いかわからず、呼称は避けた。
「洸次郎さん、おはようございます。昨日は申し訳ありませんでした」
「大丈夫です。こちら、志野吉さんの奥さんから」
「そうでした。何も食べていないのです」
窯の前に、寝台のような長椅子がある。透瑚は、その長椅子に腰を下ろしていた。
「お茶を淹れます。台所をお借りします」
「洸次郎さん、すみません。お願いします」
窯を使っている最中は、なるべく窯の前から動かない。洸次郎の兄、新三郎がそうだった。何かあると怖いから、と、兄も窯が見える場所に長椅子を置き、長椅子に横になって仮眠を取ることもあった。洸次郎はそんな兄に、軽食を差し入れることもあった。師匠である透瑚も、似た傾向があると察したが、間違いではなさそうだった。
家屋の勝手口を探し、お邪魔する。藁も道具もわかりやすいところにあり、井戸も借りて飲用の湯を沸かした。食事には無頓着な印象だったが、炊事の道具や食器は整理されてわかりやすいところに置かれていた。
大根と白菜、さつまいも、干し椎茸もあり、鍋を借りて簡単な汁物を煮た。
「おまたせしました。お節介ですが……」
椎茸出汁しか味のない野菜汁を木椀によそり、平皿を借りて握り飯と漬物を乗せる。
「いや……いやいやいや、あなたは神ですか!」
なんか、新しい宗教を崇めるみたいに感謝された。
透瑚は、野菜汁を一口飲み、深く息を吐いた。
「……生き返る」
陶芸の師匠だと聞いていたから頑固な老人だと勝手に思っていたが、洸次郎の父親くらいの年齢であるし、三鷹の緑埜橘平を思い出させるような物腰柔らかい人である。
「若いうちに妻に先立たれましてね、子もいないし、見ての通り抜けた性格なので周りの支えがないと生きてゆけないのですよ。気にしてくれる人達には、本当に感謝しています。新三郎さんも、よくこうして世話を焼いてくれました」
「……新三郎さん」
洸次郎は気になって繰り返してしまった。
「すみません。気を遣わせてしまいました。兄のこと、普段の呼び方で大丈夫です」
「普段から、新三郎さんと呼ばせて頂いていたんです。『新三郎さん』が愛称みたいなもので」
洸次郎もよく、さん付けで呼ばれる。もはや「洸次郎さん」が愛称だった。
朝食を摂ると、透瑚は盆を持って腰を浮かせた。
「ああ、洸次郎さんは休んでいて下さい。家から持ってきたいものもあるので」
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