第67話
上州から帝都までが近かった、と思うほど、初めての土地に行くのは時間が長く感じられた。
独りで汽車に乗り、摺りに遭わないか不安になって少ない荷物を腹に抱え、炙り醤油の握り飯を惜しみながら頂き、それでも空腹になると、煎餅で腹の虫をごまかした。
汽車を降りてからは、人に道を聞きながら、迷っていないか不安になりながら、雪をかぶったそびえ立つ連峰に圧倒された。この連峰は、北側の飛州の山々だという。一方で、南側の濃州は、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が流れ、特に長良川中流域は美しいという。
昔から自然に恵まれているこの地域は、古くから「飛山濃水」の地と呼ばれている。飛州の山、濃州の水である。
洸次郎が向かうのは、濃州多治見。堂々と流れる川は、郷里の上州の川とは存在感が違う。意外にも雪は少なく、雪道に慣れない洸次郎は安心した。
保原透瑚の家を訪ねて歩いていると、陶房らしき家がちらほら見られ、己の内から湧いてくるものを感じた。兄のこの地にいたことがあったのかと、感慨深いものもある。
気になることといえば、鶏の集団が足にじゃれついてくることだ。郷里でも鶏を飼っている家はあったが、群れを成すほど居たためしは無い。
「ちょっと、ちょっとごめんなさい」
帝都の生活のお蔭で人の波をかき分けることは覚えたが、鶏となると話が別だ。人のように避けるわけではなく、誤って傷つけてしまったら、農家の損害になってしまうかもしれない。
近所の人は、鶏がこんなに群がるのは珍しいと驚いていた。放し飼いにしたいた家の者が出てきて、鶏を回収にかかるが、数が多すぎる。自分と他人の家の鶏をどう区別するのか洸次郎には謎だったが、疲れ切った足にも限界が来て、地面に膝をついてしまった。
体の均衡を保てずに倒れてしまったところを、鶏が一斉にじゃれついてきた。もふもふで息ができない上、小突かれて痛い。動けずにいると、数人に引き上げられた。
「保原さん、この人だよ。あんたを訪ねて帝都から来てくれたって人」
助けてくれた人のひとりは、つい先程洸次郎が道を訊ねた人だ。
「おおー! ありがとうございますー!」
遠くから返事があった。鶏が一斉に道を開け、保原と呼ばれた人が来る。坊主頭にしたようだが、白髪交じりの短い髪の往年の男である。服装は、洸次郎の郷里の者と同じだが、雰囲気は異なる。ゆったり構えた人だ。
「あなたが、洸次郎さんだ。新三郎さんによく似ている。よく来てくれましたね。おつかれさまです。保原です」
名乗っていない洸次郎を、初対面で断定した。透瑚は洸次郎の手を握り、何度も頭を下げた。細めた目には、涙がにじんでいた。
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