第65話

「お、何だ?」

 クモが、のそりと起き上がった。

「あたしは帰るね。お漬物をおすそ分けに来ただけだから。クモ、洸次郎さんとお幸せに」

「お絹、誤解だ!」

「冗談よ。そんな演技をしようとした経緯も見てたんだから。方向性はさて置き、あんたは妹思いね」

 絹子は、クモには特に気を許すようになっていた。もともとそうだったであろう、さばさばした口調になることが多い。

「お茶を淹れまする。お絹殿のお漬物も頂きます」

 みどりが軽い足取りで台所に向かった。

「みどりさん、誉が信州に行っちゃってから落ち込んでるね」

「ですよね」

「だろ?」

「実は、誉から手紙が来たんだけど……」

 絹子は小声で続ける。

「もう絵は描かない、と決めてしまったみたい」

 など話している間に、みどりがお茶を淹れて戻ってきた。口がもぐもぐ動いている。

「食ってやがる」

「食っておりませぬ」

「柚子の香りがするぜ」

「お漬物を切ったからでございましょう」

 絹子からの差し入れは、白菜と柚子の漬物だった。

「上手いな」

 クモが目をまるくする。絹子は、ほっと胸を撫で下ろした。

「あの、話なんですが」

 洸次郎が話を切り出すと、三人に同時に注視された。

「夏場に、上州で俺を探していた人がいた、と羊右助ようすけさんが言ってたでしょう」

 洸次郎がモノのせいで帝都に逃げていた間に、洸次郎を探して上州に来たひとがいた、と友人の平井羊右助が言っていた。その人が、三鷹の緑埜みどの橘平きっぺいが話していた、昔の弟子の弟を探している人と同一人物かもしれない。

「本人と連絡がつきました。近いうちに会いに行きます」

 クモの「持ち絵」である鴉を借りて、橘平が教えてくれた美濃の保原やすはら透瑚とうこに手紙を送ったところ、いつでも良いから来てほしいと返事があった。

「色々と、厄介になりました」

 洸次郎が深々と頭を下げると、とんでもない、とみどりもクモも慌てた。

「また帰ってきますでしょう?」

「ここはお前さんの家なんだぜ」

「それが……もしかしたら」

「まさか、そのまま弟子入りとか」

「お絹さん、早とちりです。それは考えてません」

 将来的には無いとも言い切れないが、と少しでも思ってしまった自分に気づかないふりをして、洸次郎はもうひとつの「やりたいこと」を話す。

愛太郎あいたろう……息子を探そうと思っています」

「差し出がましいようですが、御子息は……」

 みどりが言葉を濁した。小塚村の者は洸次郎を除いて誰も生存が確認できていない。

「生きているかもしれないんです。近くの村から探してみようと思います。もしも息子が生きたいたら……また一緒に暮らしたいです」

 モノの記憶によれば、愛太郎は血縁的には直に洸次郎の子ではなかった。それでも、妻が腹を痛めて産んだ子であり、愛情を注いで育ててきた、洸次郎の子である。それもまた、事実である。

「コウ殿がお決めになったことでございます。背中を押しましょうぞ」

 クモも絹子も、異論は無かった。

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