第64話

 そろそろと、みどりが動く音がした。

 腹を括る暇は、無い。

 洸次郎は膝を詰め、身を乗り出してクモの間合いに入った。

「おい、コウ」

 クモが目を見開いた。否が応でも、至近距離の洸次郎と視線が絡む。泳ぎそうな瞳には、動揺の色が表れていた。普段は余裕綽々で動揺させる側にいるクモが戸惑っているのが、洸次郎には新鮮だった。

「静かにして下さい」

 洸次郎は、わざと大きな声にした。

「みどりさんに聞かれてしまいますよ」

 柱の陰からみどりが顔を覗かせたのを、洸次郎は視界の端で確認した。みどりの双眸が、くりくりらんらんとしている。

 クモは、みどりが覗き見ていることに、気づいていない。

「お、おい、コウよ」

 後ずさりしようと床に両手をついたクモに、のしかかる勢いで洸次郎は身を委ね、髭が剃りきれていない頰を両手で包む。洸次郎が唇が触れ合う寸前まで顔を寄せると、クモは息を止めて固まった。ちらりと、みどりを見ると、そちらは口を両手で隠し「はうう……っ!」と言いたそうにしている。洸次郎と目が合うが、隠れる素振りは無い。

「クモさん、あんた言ったじゃないですか。俺のものだ、心配かけやがって、気持ちはありがたい、と。俺が夜中に泣いちまったとき、慰めてくれたじゃねえですか。銭湯にも誘ってくれましたよね? あれは全部嘘だったんですか?」

「あや、あれは……」

 クモは頰を赤らめて言葉を探している。この状況面白いな、と洸次郎は意地悪く思ってしまった。

 洸次郎が体を寄せると、クモは床に仰向けに倒れてしまった。

「痛くねえですか?」

「痛くないが……」

「優しくしますよ」

 洸次郎はクモを組み伏せ、見下ろす。

「いや、待て、コウ! 心の準備が!」

 何が心の準備だ、と洸次郎が心の中で突っ込みを入れた刹那。

「何が心の準備が、でございますか! 駄目です、逆です! コウ殿が受ける側でございます! そもそも、兄上はコウ殿に何を吹き込んでいらっしゃるのですか! 汚い乳首を晒すおつもりでございますか!」

「おい、妹。嬉しそうな顔で言うな。腐った頭は健在だな。心配して損したぜ」

「心配されるようなことなど、ありませぬ。コウ殿を巻き込んで不埒な演技など、なさらないで下さいませ。お絹殿を泣かせるおつもりですか」

 柱の陰から絹子が出てきた。洸次郎とクモの、げっ、と蛙が潰れたような声が重なった。

「お絹、違う! これは……」

「大丈夫。最初から見てたから」

「どこから見ていやがった」

「洸次郎さんと演技の相談をするところから」

「……なんだ、肝が冷えたぜ」

 クモは仰向けになったまま安堵した。

 洸次郎は、のそのそのクモから離れ、穴があったら入りたい気持ちになった。卑しい意味ではなく、どこかに隠れて消えてしまいたい。

「コウ殿、お心遣い痛み入ります。本当に、わたくしは平気です。それより、兄上の鴉がコウ殿宛のお手紙を咥えていまする」

 鴉の手紙を受け取ると、洸次郎はその場で開き、内容を確認した。

「みどりさん、皆さん。俺、やりたいことがふたつあります」

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