第46話
誉は遠慮したものの、起きていることができず、再び布団に横になってしまった。
「お絹さん」
洸次郎はふと、上州であった出来事を思い出した。
「俺達を守ってくれたのは、お絹さんだったんですね」
モノと化した父親に殺されそうになったとき、蔦の絵を出現させて盾をつくってくれた。隣の村の者に責められたときも絵のチカラで守り、熊谷まで秒で送ってくれた。
「いえ、あの……守ったという大げさなものではないけれど……まさか、帰りの機関車の中で会ったときは、気づかれたと思ってしまって……あのときは、上州で奇怪な火事があったと聞いて、おばちゃんの絵が悪さをしたと思って……」
絹子は、後ろめたいように話す。やはり、絹子があの場にいて助けてくれたのだ。
「まこと、感謝申し上げます。お絹殿のお蔭で、我々は助かりました」
「そんな、お礼を言われるようなことは……」
絹子は腰を浮かせた。
「すみません。仕事があるので、そろそろ」
「お仕事ですかい?」
洸次郎は、興味本位で訊いてしまった。
「ええ、料亭の雑用ですが。生活のためです」
あまり気が乗らなそうな絹子だが、洸次郎は羨ましくなってしまった。
洸次郎は怒鳴られると体が動かなくなってしまい、日雇いの仕事でさえ、使い物にならないと追い出される始末だった。働ける絹子が羨ましい。
絹子が大根畑の家を出た後、洸次郎とみどりは、寝たまま起きない男ふたりをこっそり覗きに行った。
「……つまらぬ」
みどりが呟いた。何を期待したのか、洸次郎はあえて突っ込まない。
「クモさんも目が覚めないみたいですね」
「コウ殿、ちょっと」
男ふたりは寝かせたまま、洸次郎はみどりに袖を引っ張られて縁側に戻る。
「コウ殿から見て、兄上はどんな様子ですか?」
「クモさんは……堂々としていて、羨ましくなります。俺なんかを気にかけてくれて、居候までさせてくれて、お人好しですね。ただ……疲れが出やすいんでしょうか。絵の仕事が一段落つくと、寝てしまうことが多い気が……」
洸次郎は、若い頃みたいに無理ができない、とクモが言っていたことを思い出した。
モノと対峙すると体力を使い、本来の絵の仕事に遅れが出ると、徹夜してまで巻き返そうとする。根が真面目なのだと思っていたが、それだけではないと、今は思う。
「クモさんも、モノと戦った後は誉さんみたいになっちまう」
「コウ殿もそう思いますか。そうなのです、兄上は……」
普段は軽口を叩きながら、喧嘩もする妹が、眉を下げて目に涙を浮かべる。
「兄上本人も隠していないことですし、コウ殿に話しても構わないと言っていたので、わたくしから話してしまいます。兄上は幼い頃、養子に出されていたのでございます。向こうの家と折り合いが悪く、十七で
クモは上達が早かった、とは聞いたことがあったが、弟子入りが遅かったのは初耳だった。クモが絵を描き始めて十二年。みどりより短い。
「なぜ兄上を養子に出したのか、父上の本心は今となってはわかりません。憶測でしかありませんが、動く絵を出現させるチカラはあっても、それを続ける体力や気力に限界があると判断されてしまった、と、わたくしは考えました。今の兄上を見ていると、いつか動く絵を酷使して命を削られてしまうのではないかと、心配で……」
みどりの眼から、涙が一珠こぼれた。
「兄上が父上の葬儀にまともに関わらなかったのは、今でも根に持っております。ですが、兄上は兄上で、生前の父上とどう向き合えば良いか悩まれている節もありました。そんな状態なのに責めるわけには参りませぬ。あんな兄上でも唯一の身内ですし、口は悪いですが優しい兄です。絵のことで兄上を失うわけには……」
手のひらで顔をおおうみどりに、洸次郎は手を伸ばした。刹那、勢いよく襖が開いた。
「黙って聞いていれば、好き勝手言いやがって」
寝起きのクモが、不機嫌そうに頭を掻く。
「遅ようございます、兄上。汚い乳首をお晒しになって、だらしない」
「おい、妹。汚い乳首って、何だ。そんなに着崩してもいねえだろうが。仮にも嫁入り前の女なんだから、言葉には気をつけやがれ」
「それは暴言でございます!」
お約束のように喧嘩をする兄妹。洸次郎は、少し安堵した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます