第44話

 うう、とうめく声が聞こえた。

「誉殿!」

 みどりの声が弾む。

 誉が目を覚まし、膝立ちで縁側に近づく。

「すみません、こんな醜態を晒してしまって」

 苦笑する誉の顔色は、良くない。

「この間は立っていられたのですが、昨日は駄目でした」

「誉殿、ご無理をなさらないで」

「みどりさん、ありがとう」

 誉が弱々しく微笑むと、みどりは眉を下げて困った顔になってしまった。

 みどりと絹子は、慌ただしく台所の方へ行き、すぐに白湯と朝食を持ってきた。

「誉、ごめん。話してしまったの。また帝都に来たところまで」

「お絹、僕も話すよ」

 誉は、味噌汁と握り飯を数口食べ、小さく息を吐いた。

「……すみません。『絵』を戦わせると体力の消耗が激しいみたいで、速く食事を摂ることができないんです」

「わかります」

 絵を描かない洸次郎が共感してしまった。

「お蚕の世話や畑仕事で疲れ果てた日は、夕飯を食べるのが苦痛で、親父に怒鳴られました」

「あのお父上なら、やりかねますね」

 みどりが、棘のある言い方をした。

「洸次郎さんは……いえ、何でもありません」

 誉は何か言いかけ、首を横に振った。

「絹子と僕は帝都……昔の江戸で生まれましたが、信州にある父の実家で育てられました。叔父夫婦に息子が生まれると、お絹は嫁入り、僕は進学を建前に、帝都に来ました。お絹の嫁ぎ先は僕の両親の家に近く、会うことも多かったです」

 ここまでは、絹子の話と同じである。信州から追い出された話は、寛容な表現になっているが。

「叔父夫婦が、僕達を帝都に行かせたのは、世間体のせいでもあったのかもしれません。当時の顧客の中には、僕達のことを良く思わない人もいましたから、叔父夫婦が気にしていてもおかしくありません。そのせいか、僕の学費は叔父夫婦が払ってくれていました。僕は恵まれていた方だと思います。中学校にも進学できて、大学の医学部にも入ることができて、医術開業試験にも合格できました。ただ、お絹は……」

 誉は、絹子を伺う。

「あたしが悪かったんだ。出来の悪い嫁だったから。あたしのせいで、おじちゃんとおばちゃん……誉の両親が死んで、今こんなことになっているんだから」

「お絹、それは違う」

「あたしに言わせて。あたしが至らないせいで、旦那はお妾さんとの間に子をもうけた。あたしが子を産まないから、そうするしかなかった、と旦那を酷く怒らせてしまった。罰として、お妾さんの子はあたしが育てることになった。旦那は家に金を入れず、その金はお妾さんに使ってしまった。あたしはよく、誉の家に食べ物をめぐんでもらいに行った。誉の家も、裕福な暮らしでなかったのに。旦那は人を雇って、誉の家を襲った。そのときの怪我が原因で、おじちゃんは死んでしまった。あたしが誉の家に出入りしていたせい。おじちゃんは、あたしが殺したようなもんだよ」

 絹子は口を挟ませないように、一気に喋る。洸次郎は、自分の記憶が脳裏をよぎり、感じた。自罰的な絹子に、洸次郎は少し前の自分を重ねてしまった。父親の歪んだ認知に抑圧され、自分が悪いと思い込んでいた、あの頃の自分に。

「旦那は、お妾さんの子に、あたしがどれだけ出来の悪い人間か吹き込み、十歳になった子はあたしのことを信用しなくなっていた。あたしの前でわざと行儀悪くしたり、飯をもらえないと近所に吹聴したり、あたしが誉と浮気していると嘘を言いふらしたりした。その嘘で、おばちゃん……誉の母親は心と体を壊し、寝込んでしまった。寝床で絵を描きながら、息絶えて、その絵が……」

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