第35話

 みどりもクモも眉根を寄せて黙ってしまい、洸次郎は話しかけづらくなってしまった。

「本当に、ごめんなさい。俺がもっと早く話さなかったから。菓子とお茶、ごちそうさまでした」

 味気なくなってしまったジンジャーブレッドを無理矢理口に入れ、煎茶で胃に流し込み、洸次郎は腰を浮かせた。

「コウ殿」

 みどりの声色が、普段通りに澄んでいるが、洸次郎は過剰に萎縮してしまった。

「誤解なきよう、申し上げます。昨夜のモノは、父上の雅号とも『絵士組』とも関係ありませんでした」



 甘い菓子で腹を満たした後、クモは昨夜の疲れが出たようで仮眠を始め、洸次郎とみどりによる掃除道具争奪戦が始まった。

 掃除道具争奪戦の結果は、引き分け。ふたりで分担して掃除をする。

「みどりさん、すみません。お仕事があるでしょうに」

「いえ、朝のうちにお掃除をすると一日が健やかに過ごせそうですから」

 みどりは微笑みはするが、どこか無理をしているように、洸次郎には見えた。父親のかつての雅号を勝手に使う輩がいるという話が、心に一滴の墨を落としている。

 羊右助からの手紙を思い出した。今でも郷里で洸次郎のことを悪く言う人が多い。洸次郎は、知らなければ良かった、とは思っていない。第三者にしてみれば、羊右助は余計なことを洸次郎に伝えたかもしれない。

 みどりの場合は、どうだろう。洸次郎は、みどりに「狂斎」の文字のことを話さなければ良かったのか。あれは失言だったのか。洸次郎は自らの発言を悔いた。

 今の自分にできることは、みどりの負担を減らすことだ。

「みどりさん、昼飯と夕飯は俺がつくりますね」

「そんな、朝も美味しい握り飯を用意して頂いたのに、申し訳ありません」

「良いんです。俺は手が空いているんですから。夕飯は『とっちゃなげ』にしますね。昼過ぎに、小麦粉を買いにいってきます」

「……コウ殿、かたじけない」

 掃除が終わると、みどりは『持ち絵』を封じている帳面を開いた。

「そういえば、帳面と筆は特別なものなんですか?」

 洸次郎は、ずっと疑問に思っていたことを訊ねてみた。

「いえ、量産品でございます。帳面は、持ち運びしやすいような大きさに紙を切って綴じ直し、筆は買い溜めていたものを使っております。なぜ動く絵を出現できるのか、なぜモノと戦っている間だけは墨を使わずとも『捨て絵』が描けるのか、原理はわかりませぬ」

「地面に凄い絵を描いていましたよね……?」

「あれは、必死でしたから」

 帳面には、みどりが熊川こもがい祥瑞しょんずいと名づけている子犬二匹がきちんと収められていた。

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