第34話

 洗い物争奪戦に勝った洸次郎は、食器を洗ってから、昨日のことを思い出した。「狂斎」の文字を見たことを、みどりにもクモにも伝えていない。

「みどりさん、クモさん、お疲れのところ大変すまないのですが……」

 モノの騒ぎを受けて深夜に一仕事したはずのみどりとクモは、早速絵絹に向かって筆を手にしていた。作業を中断させるのは心苦しいが、話すなら今しかないと思った。

「昨日、上野で化け物が出た……かもしれない、あの話なのですが」

「……面目のうございます。今の今まで、すっかり忘れておりました」

「上に同じ」

 みどりもクモも、たった今思い出したようだった。

「文字を見ました。ふたりが『持ち絵』を帳面に戻すときに書く、雅号みたいな字です。俺には読めない字でしたが、こんな感じの……」

 洸次郎が「狂斎」と書くと、ふたりの表情が変わった。

「きょうさい」

 みどりが呟いた。

「誰がその雅号を盗みやがった⁉ え!?」

 クモが身を乗り出し、洸次郎の胸倉を掴む。

「兄上!」

 みどりが間に入ると、クモは我に返って手を離した。

「悪かった」

「いえ、俺が悪かったです。すぐに話さなかったから。その雅号を見た後に、結城さんに会いました。結城さんが書いたのかどうかは、わかりません。たまたま近くにいただけかもしれませんし」

 それを聞いたクモが、黙したまま腕を組んだ。みどりは、化粧気の薄い顔に困惑の色を浮かべる。

「お茶を淹れましょう。時尾様から頂いたお菓子もありますし」

 みどりは腰を浮かせた。長い話になるかもしれない、と洸次郎は思った。



 煎茶とジンジャーブレッドを盆に乗せ、再び縁側へ。部屋の中では気が滅入りそうだが、外の空気を感じる場所では多少違うかもしれない。現に、黙ったままのクモは幾分か気持ちの整理がついた表情になった。

「では、わたくしから」

 みどりが話を始める。

「狂斎は、父の昔の雅号のひとつです。あかつきの字を使うようになったのは、大樹公しょうぐんではなく今のように政府が世を治めるようになってからです。父は風刺的な絵に目をつけられて投獄されたことがあったと聞いたことがあります。くるうの字を改めてあかつきに変えたのも、それがきっかけのひとつみたいでした。当時、わたくしは入門前でして、わたくしがこの話を聞いたのは、数年後。昔からの父のお弟子さんからでした」

「じゃあ、今、くるうの字の方の狂斎を使っている弟子は……?」

 洸次郎は思わず訊いてしまった。愚問だ、とばかりに、クモが顔をしかめる。

「いねえぜ。勝手に使っている連中は、まだいるかもしれねえが」

「まだ、ですね」

 まだ、を、ふたりは強調した。

「今、河鍋われわれの中で動く絵を描けるのは、兄上とわたくしだけでございます。ですが、昔は何人もいたそうです。その者の中には、モノを退治するチカラを維新戦争に使おうとする者もいたそうです」

 維新戦争。今の政府と、大樹公の世を守らんとする勢力の戦である。

「父はその者達を破門に致しました。破門になった弟子達は己を『絵士組えしぐみ』と称し、政府軍と戦おうとしました。ただ、絵で参戦したという記録も証言もありません。『絵士組』が具体的に何をしようとしたのか、わからぬまま、時代は変わりました。もしも『絵士組』が今も残っているとしたら、世代交代しているやもしれませぬ。父を騙る雅号で、何をなさいますのやら」

 みどりは淡々と話すが、目の奥は穏やかではなかった。

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