第36話
昼過ぎ、洸次郎はひとりで出かけた。帝都に来てから単独で外出するのは、初めてかもしれない。
「とっちゃなげ」に使う小麦粉を買うため、というのは、口実だ。有り体に申し上げれば、「狂斎」の雅号を勝手に使っている者の正体を突き止めたい。
人に道を訊ねながら、上野の球場に来た。この時点で、みどりが気を揉みそうなほど時間が経過している。だが、手ぶらで帰るわけにはゆかない。
球場から、昨日の路地を探し、迷うのを覚悟で路地を進む。
「ちょっと、あんた!」
凄い剣幕で話しかけられ、肩を掴まれる。
「あんた、こんなところにいて良いのかい! 今日は手術の日なんだろう!」
昨日、洸次郎を誘おうとしていた女だ。病院から抜け出した設定を、女は信じている。
「あの……手術が怖くて……」
洸次郎は設定を活かして言い訳した。
「やめてくれよ。あんたが死ぬのは、あたしは嫌だからね。あんたのことは知らないけど、あたしが助かる道を妨げるわけにはゆかないんだよ。頼むから……生きてくれ……」
女は泣き始めてしまった。意外にも情に厚く、今日は色仕掛けするつもりが無いようだが、これはこれで厄介だ。いかに切り抜けようか、洸次郎はない
「探したぜ」
クモの声が聞こえ、洸次郎は冷や汗が吹き出した気がした。
「悪いが、返してもらうぜ。こいつは、俺のものだ」
洸次郎はクモに腕を掴まれ、力ずくで路地から開けた場所に連れて行かれる。
「何してやがった」
「それは……」
洸次郎は、返事に窮した。クモに尾行されていたことに気づかなかったことにも、堂々と答えられないことにも恥ずかしい。
「心配かけやがって」
「……ごめんなさい」
「ま、気持ちはありがたいぜ」
クモが、洸次郎の頭をぽんぽん叩く。すると、これまた聞き覚えのある声がした。
「はうぅ……っ!」
みどりが目を輝かせている。
「こいつは俺のものだ! 心配かけやがって! 気持ちはありがたいぜ! ……からの、頭ぽんぽん!」
「黙れ、妹! 憑いてきやがって!」
「兄上がコウ殿を心配して出かけるのなぞ、お見通しでございまする!」
みどりは、洸次郎にとびついてきた。
「コウ殿、ご無事で何よりです」
「……みどりさん、ごめんなさい」
「『とっちゃなげ』が食べとうございます」
「買い物して帰りましょう」
「ですです」
三人で買い物をして、帰宅する。
小麦粉を水で練り、生地をちぎって野菜と醤油汁で煮込んだ「とっちゃなげ」を、みどりもクモも夢中で食べた。その食べっぷりを見て、洸次郎はふと、妻と子のことを思い出した。モノが洸次郎から奪ったものが芋づる式に思い出され、平静でいられなくなる前に
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