第30話
大学予備門の面々と別れ、帰路に着く。
鼻歌を歌うみどりと対象的に、クモはしかめっ面だ。洸次郎が他愛もない話を振っても、クモは乗ってこない。
「いけ好かねえ」
「何がですか!」
みどりが小噴火した。「何が」と訊きはするが、「何が」が示すものをわかった上で確認する口ぶりだ、と洸次郎は思った。
「先程の、結城とかいう男だ」
「親しみがあって、優しい御方でございましょう」
そうですよ、と洸次郎が口添えするより早く、クモが否定する。
「あ? んなことあるか」
「ありまする!」
「お前、色惚けしてんじゃねえだろうな」
「はあ⁉」
「ふたりとも、静かにしましょう。近所に迷惑です」
洸次郎がなだめようとすると、みどりとクモは不服そうに口をとがらせた。
大根畑の家に着くと、「洸次郎さーん!」と泣きつかんばかりに鹿島清兵衛がとび出してきた。
「清兵衛さん、お留守番ありがとうございました」
「なんの。洸次郎さんのためなら、喜んで何でもしますよ。洸次郎さんは、夫婦の恩人ですから」
初対面でのあの喧嘩腰は何だったのかと思われるほど、清兵衛の懐き方は凄まじい。実のところ、洸次郎でも引いてしまう。ただし、迷惑ではない。感謝もしている。
洸次郎が失意のどん底で再び帝都に来たとき、清兵衛から欠けた茶碗を差し出され、継いでほしいと懇願された。細君のものだという茶碗を金継ぎし、返却してから、鹿島夫妻にめっぽう感謝された。夫婦の仲を取り持った洸次郎は、その日から恩人扱いされるようになった。そして、お得意様や友人の陶器も預かって、洸次郎に修理をお願いするようになった。
「洸次郎さんにお手紙が届いていました。それと、みどりさんに、洋菓子が。藤田様の奥様からです」
みどりとクモは顔を見合わせ、しかめた。先程の喧嘩はどうしたのかと思われるほど息が合う。
「ジンジャーブレッドだと仰っていました。奥様のお友達の得意な菓子だと」
「……頂くしかありませぬね」
「ああ」
「あの、私は何か、しでかしました……?」
「いいえ、お留守ありがとうございました。鹿島屋様も、お夕飯食べて行かれますか?」
「すみません。得意先と会食がありますので。じゃあ、洸次郎さん、また」
家主であるクモでもなく、みどりでもなく、洸次郎に挨拶する清兵衛。
「……で、どうするよ。藤田のカミさんからの菓子」
「腐らせるわけには参りませぬものね」
みどりは、ふう、と溜息をついた。
「藤田……さんは、警察の藤田さんですか?」
藤田警部には、洸次郎にも関わりがある。モノ絡みで命を絶ちそうになったことを、藤田は信じてくれた。警視庁のモノ担当のようだ。
「ええ。その藤田様です」
「捜査に協力してほしいとき、カミさんを寄越すんだ」
「藤田様の奥様とは、僭越ながら仲良くさせて頂いておりますので。ここはひとつ、藤田様に協力致しましょう」
「だな」
その夜、食後にジンジャーブレッドという菓子を食べてみた。砂糖がたっぷり入った焼き菓子に、生姜の風味が効いている。抹茶が欲しくなる味だった。洸次郎は、兄から茶の湯の手ほどきを受けたことを思い出し、思い出さないようにした。
食後の菓子の後は、みどりとクモは絵絹に、洸次郎は漆と向き合う。
郷里である村のことは、向き合わなくてはならないのに、思い出したくない。清兵衛からの頼まれごとである金継ぎは、村のことを忘れさせてくれる。
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