第29話

「あっ、コウ殿!」

「コウ、無事だったか!」

 洸次郎がほまれを連れて球場に戻ると、みどりもクモも、けろっとして帳面と筆を手にしていた。

「すみません。モノがいたのかどうかも、わかりませんでした」

「コウ殿がご無事なのが一番ですよ」

 洸次郎の無事に安堵したみどりは、誉に気づいて小首を傾げた。

「この人は、お医者様です。結城さんです」

「初めまして。結城誉と申します」

 誉は帽子を外し、西洋風の挨拶をした。

「たまたま会ったんですが、おふたりを診てくれると言うんで来てもらったんですけど……すみません。もう平気みたいです」

 みどりもクモも、バットぐるぐるの酔いから醒め、しっかりと立てている。

「ところで、おふたりは絵を描かれるのですか?」

 みどりが広げた帳面に、誉は気づいた。みどりが顔を綻ばせるが、クモは眉根を寄せる。

「あんた、本当に医者か?」

「兄上、失礼でございます。絵がお好きなお医者様もいらっしゃいましょう」

「まあ、いるかもしれねえが」

 クモは警戒を解かない。

「わたくしは、みどりと申します。こちらは、兄です」

「お兄様でしたか。妹さんを守る、良き兄なのですね」

「ええ。今日は慈悲の御心を家に置いてきてしまったようですが」

「それ、初対面の奴に言うのか⁉」

「それは大変です。帰宅したら、盗まれていないか確認しなくては」

「ほんと、それです」

 みどりと誉は波長が合うようで、ぽんぽん会話が弾む。クモも洸次郎も加われない。

「少しでも体調に異変があったら、近くのお医者様に駆け込んで下さいね」

「はい、先生」

「みどりさん、クモさん、お大事に」

 誉は帽子をかぶり、去ってしまった。

「おい、妹よ」

 誉の姿が見えなくなると、クモが低い声でみどりを呼んだ。

「女の顔をしてんじゃねえよ」

「最初から女の顔でございます!」

「そういう意味じゃなくて……ああ、そうか」

 クモは、にやにやしながら、みどりの頭を撫でる。

「まだまだ子どもだな」

「子ども扱いとは、ずるうございます!」

「はいはい、慈悲の御心とやらが盗まれていないか確認しに、帰るぞ」

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