第28話

 洸次郎は、走った。

 駆けつけても何か出来るわけではないが、素知らぬ顔はできなかった。

 もしも化け物がモノだとしたら。人を襲っていたら。自分が盾になって誰かをかばうことができるかもしれない。

 未だに土地勘の無い上野周辺を走り回り、路地で迷子になった。そのとき、洸次郎は宙に浮く文字を見た。みどりやクモが絵を帳面に戻すときに書く雅号に似ている。

 「狂」と「斎」。

「きょう、さい……?」

 その響きを、洸次郎はどこかで聞いたことがある。

「ちょいと、お兄さん」

 女に話しかけられ、洸次郎は驚いた。

「はい、すみません」

「そう固くならないでよ。お兄さん」

 女は洸次郎を上目遣いで品定めする。着物の襟や裾がだらしない。

 洸次郎が居候している根岸大根畑は、湯島天神の参拝客を当てにする女達の店が路地裏に並んでいる、とクモから教わったが、案外どこにもいるのだ。

「化け物を見ませんでしたか? 人を襲ったりしませんでしたか?」

「化け物、ねえ」

 女は指先で洸次郎の襟に触れる。妻ともみどりとも違う印象の女に、洸次郎の思考あたまで警鐘が響いている。

「ついてきな。教えてあげる」

 そう言われ、ほいほいついてくるほど洸次郎は単純ではない。女に耐性があるわけでないが、この女はモノにも化け物にも関わりがないと思う。ついて行く必要は無い。

「よしときます」

「遠慮は要らないよ」

 女は洸次郎に腕を絡ませてくる。

「乱暴されたと大声で言われたくなければ、言う通りにしな」

 洸次郎は、返事に窮した。袋小路。為すすべ無し。途中までついて行き、どこかで撒くしかない。腹をくくって二三歩歩くと、背後から話しかけられた。

「やっと見つけた! 病院から逃げちゃ駄目ですよ!」

 見知らぬ男だ。洸次郎より年上。クモと同年齢に見える。細身に洋装で、鞄と白い上着を小脇に抱えている。

「この人を見つけてくれて、感謝します。この人、手術を明日に控えているんです。それなのに、病院から脱走するものだから、病院中大騒ぎですよ。職員総出で探していたところです。さあ、戻りましょう。お体に障りますよ。また血尿が出たら大変です」

 血尿、と女が呟き、顔に戸惑いの色が浮かんだ。男が洸次郎に手を差し伸べ、合図するように頷く。

 今だ。洸次郎は女からするりと抜け、男と一緒に逃げた。

 見知った場所に出ると、洸次郎は安堵の溜息が出た。

「ありがとうございます。助かりました」

「なんか、すみません。演技につき合ってもらって」

「いえ、あれがなかったら、俺は無理矢理連れて行かれていました」

「やり過ぎましたかね」

 男は、大きな目を細め、柔和に微笑んだ。洸次郎の村にはいない、洗練された人だった。

「じゃあ、俺はこれで。具合が悪い人を放ってきてしまったので、どうにかしなくては」

「僕も行きましょう。場所はどこですか?」

 今度は洸次郎が戸惑う番だった。先程の演技といい、具合が悪い人に関わる気満々といい、初対面の者に人が良すぎる。

「申し遅れました。自分は、結城ゆうきほまれと申します。一介の医者です」

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