第14話
「洸次郎さん! 洸次郎さーん!」
洸次郎は引き上げられた。比喩ではなく、物理的に。
ずぶ濡れの洸次郎を引き上げ、名を呼んでいたのは、鹿島清兵衛だった。今朝の態度とは一転して、必死に洸次郎の反応を急かしてくれる。
なぜ清兵衛がいるのか、なぜこんなにも必死なのか、洸次郎は状況が飲み込めない。
「クモさん! 洸次郎さん、目を覚ましました!」
「よくやった、清兵衛!」
「あなたには呼ばれたくありません!」
「そのまま洸次郎を押さえてろ、清兵衛!」
刹那、洸次郎は自分の体から、黒い影が抜けるのを見た。モノだ。それは空に舞い上がろうとするが。
「飲み込みちまえ、
クモは帳面を開き、そこから、筆で描かれた動物が出現する。
獏と呼ばれた、鼻の長い動物は、モノを丸呑みした。しかし、獏が霧散し、モノが残る。それを鴉が食いつき、モノは消えた。
「鴉、もう良い。戻れ」
クモは、宙に字を書く。「暁」と「雲」。暁雲。筆の穂先と反対の部分を軽く押し当てる仕草をすると、落款が宙に現れた。鴉は帳面に戻り、字と落款は消えた。
「くそ……! あと一歩だったのに!」
クモは前髪を掻き上げ、空を睨みつけた。
「洸次郎、無事で良かった! 清兵衛がいなけりゃ、あんたは浪の下の都に行っちまってたんだぜ」
「クモさん、浪の下の都は壇ノ浦です」
「清兵衛よ、助かったから良いじゃねえか」
洸次郎には、ネタ元がわからない。体を起こすと、どこかの河原にいることに気づいた。多くの人に注目されている。その中に、警察官もいた。
警察署で、藤田という警官に事情を聞かれた。他の警察官の会話から、藤田の階級は警部で、配属先は麻布だということがわかった。
「麻布からこんなに早く来られるわけがないだろう、って顔……は、していないか」
「河鍋の兄貴の馬が、わざわざ迎えに来たのだ。モノが絡んだ騒ぎだったんだろうと思って来てみたら、その通りだった」
河鍋の兄貴の馬、という
「あの、俺は」
洸次郎は、蕎麦屋をとび出したことしか話さず、上州から来たことやモノのことは誤解されそうな気がして迂闊に話せなかった。
「先程、お前さんが取り憑かれていたのは、モノだな」
藤田の口から「モノ」の名が出て、洸次郎は驚いた。藤田の話は続く。
「お前さんは、橋から川に飛び降りた後だった。たまたま通りかかった鹿島屋の旦那が気づいて、川にとび込んでお前さんを助け出してくれた。河鍋の兄貴が、お前さんから抜け出して逃げようとするモノを完全に消そうとしたが……かなり弱ったが逃げられてしまった。あのモノは、俺が長年見てきた中でも、飛び抜けてたちの悪い奴だ」
「俺は、モノに取り憑かれていたんですかい」
そういえば、意識を失ったような間に、夢を見た気がする。思い出すうちに、血の気が引く感覚をおぼえた。
「おい! しっかりしろ!」
藤田が声を荒げる。他の警官に取り押さえられ、短い時間だか暴れていたことを知った。心臓が締めつけられる心地がして、息が苦しい。
夢ではなかった。モノの記憶だ。しかもモノは、自分の父親、折茂忠治郎だった。
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