第11話

 銭湯を出ると、二本足で走る兎に出くわした。筆で描いたような、平べったい絵のような兎だ。道を行き交う人は、誰も不思議そうにしていない。風景の一部と化している。

「狩野さんとこの兎だな。大方、近くの店が契約して荷を運ばせてやがるんだろう」

 クモが洸次郎に説明してくれた。

「そんなこともできるんですかい」

「狩野なら、できる。河鍋おれたちもできなくはないが、得意ではない。まあ、妹と、生前の親父なら、こなしちまうだろうな」

 洸次郎の兄、新三郎が褒め、みどりとクモが何度も名を出している河鍋暁斎という者は、どれほどの逸材だったのだろうか。洸次郎には想像がつかない。

「良い機会だ。俺のも見せてやるぜ。妹には怒られるかもしれねえが、構わねえ」

 クモは、衿を緩めていた着流しの懐から、小さな帳面と、帯に挟んでいた小筆を出した。帳面を開くと、墨で描かれたからすが一羽いた。動くのかと目を凝らす洸次郎に、クモはにやりと笑った。

「動いてねえだろ? 見てろ」

 刹那、クモの目つきが変わった。鋭く、射るような眼差しだ。乾いた小筆で烏の絵に触れ、唱える。

「――いでよ、からす。モノを捜せ。食ってこい」

 帳面の中から羽ばたく音がした。墨の羽をばたつかせて出てきたのは紛れもなく、帳面に描かれていた烏だ。それは生きた鳥と変わらぬ動きで空に舞い上がり、遠くに飛びたってしまった。

 クモは説明する。

「動く絵は、陰陽師の式神や西洋の悪魔みたいなものだ。俺達は『持ち絵』……帳面に描いておいて、必要なときに出現させて、用事がなくなったら帳面戻す絵と、その場で描いて用事がなくなったら消えても構わない『捨て絵』を使い分けている」

 洸次郎は、はい、と相づちを打ったが、ほとんど理解できていない。陰陽師や西洋の悪魔を知っていれば理解できるかもしれない。

「強そうな妖怪を『持ち絵』にすれば容易くモノを退治できるんじゃないか、と言われたことがあるが、そうは問屋が卸さねえ。動く絵は、人間とは異なることわりで存在している。やたら強そうな妖怪や武将を『持ち絵』にしちまうと、『持ち絵』が絵師を見限って、絵師を殺しかねない。だから、『持ち絵』は最小限に、万が一牙を向かれても抗えるような絵にする必要がある」

 それを聞いた洸次郎は、犬と飼い主を思い浮かべた。

「まあ、親父はでかい龍とか『持ち絵』にしたこともあったがな、それができたのは親父だけだ。心が強くなくてはないし、体力も要る。妹も二体の『持ち絵』を使えるくらい才能があるが、いかんせん、危なっかしい」

「だから、クモさんはみどりさんと、この前上野に一緒にいた……でしたよね?」

「確かに、一緒にいた。男共に雑ざって野球をやるって言うから、面白いものが見られると思って」

 クモは冗談めかして言った。面白いものが見られる、という部分に突っ込んでほしかったのだろうが、洸次郎の反応はこうだった。

「野球って、何ですか?」

「baseball、だ」

「べぇす、ぼぉる……?」

 小塚村には無い物だ。もしかしたら、高崎城址にはあるだろうか。

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