第10話

 清兵衛が帰ってゆくと、クモが、ぽんと手を叩いた。

「洸次郎さんよ、銭湯にでも行くか」

「はうぅ……っ!」

 謎の反応をしたのは、みどりだ。両手で口元を押さえるが、両の眼の輝きと、にやける頬が隠しきれていない。

「兄上、無垢な洸次郎殿になんというお誘いを……ではなく、お仕事の納期が迫っておりますのでしょう!」

「徹夜で終わらせたさ。俺だって風呂に入りたいんだよ」

「わたくしも参ります!」

「お前は弟子に稽古をつけに行くんだろうが」

「くっ……そうでした」

 みどりは心底悔しそうにこぶしを握りしめる。

「洸次郎殿、危険を感じたら、すぐに逃げるのですよ。具合が悪くなったら近くの人に助けを求めるのですよ」

 わかりました、と洸次郎は返事をしたが清兵衛から聞いた新聞の話で、頭がいっぱいだった。

 村が焼けた。生存者は見つかっていない。妻は、子は、村の者達は……最悪の事態を想像してしまう。

「洸次郎殿!」

 みどりの声で、洸次郎は我に返った。

「鹿島屋様がお着替えを貸して下さいました。行ってらっしゃいませ」

「洸次郎さんよ、行こうぜ」

 ふたりに強めにすすめられ、洸次郎は銭湯に行くことになってしまった。気が乗らないが、気が滅入らぬよう配慮してもらったのだと思うと、ありがたさは感じた。



 この場所は、本郷湯島新花町だと、クモが教えてくれた。クモ達は、大根畑と呼んでいる。

 土地勘のない洸次郎には、帝都がどこも同じに見えてしまう。

「人が多いですね。華やかです」

「そうかい」

 クモは微笑ましげだった。まるで、無垢な子どもでも見ているかのようだった。

「かつては寛永寺の寺侍が多く住んでいたんだが、近頃は湯島天神の参拝客を当てにする女達の店が、路地裏に並んでいるのさ。気をつけな。お前さん、骨抜きにされちまうぜ」

「気をつけます」

 帝都の事情を知らない洸次郎でも、クモの口ぶりで内容は察した。妻に顔向けできないことは決してやるまいと誓った。その直後、数年前の妻の様子を思い出した。

「どうした」

「いえ」

 陰で泣いていた妻。懐妊がわかった後もふさぎ込んでいた。愛太郎が生まれても、人目を避けて泣いていた。その理由を推測できたのは、もっと後のことだった。妻は生きているだろうか。愛太郎は生きているだろうか。最悪の事態を想像してしまう。

「妻のことを思い出して」

「あんた、所帯持ちなのか⁉」

「子もいます」

「……っ⁉」

 クモは目をひんむく勢いで、無言で驚愕した。しばらくふたりとも黙し、その間がおかしくて、ふたりして吹き出した。洸次郎は久々に笑った気がした。

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