第8話

 と言ったものの、どこから話を切り出したら良いかわからない。

「上州の、小塚村から来ました。何もねえ村ですが、武州に近いです。俺の家は養蚕をしていました」

「養蚕」

 みどりが反応した。

「上州には、製糸工場がございますね」

「ええ」

 首肯したが、富岡にある官営の製糸場のことを、洸次郎はわかっていない。

「今が一年で一番忙しい時期です。それなのに、あのモノが突然現れ……」

 洸次郎は思わず顔をしかめた。思い出したくない、と本能が警告する。

「何も考えられず、逃げました。熊谷からは機関車に乗って、なるべく速く、なるべく遠くに、と思ったのですが……あのモノは、ぴったりと着いてきました。人に取り憑いて、俺を狙って。そんなとき、みどりさんが助けてくれました。帝都の絵は動くと聞いたことがありますが、見たのは初めてでした」

 みどりとクモ、ふたりの表情が、多少柔らかくなった。

「存じ上げていらっしゃるのなら、話が早いです。驚いたでしょう」

「はい、まあ。帝都の人達は慣れてるみてえですが」

「慣れてるだろうな」

「慣れているみたいでございます」

「慣れてんですか」

 あのとき、「河鍋さんとこの絵だね」と誰かが言っていた。

「河鍋さん、というのは」

「我々でございます。父、河鍋暁斎とその門下の者がそう呼ばれております」

「河鍋暁斎」

 洸次郎はその名を聞いたことがある。だが、つい先程、父上の葬儀という言葉も聞いた。故人なのだ。

「他にも、狩野の流派も、我々のような絵をお描きになります。狩野は、書簡や物を運んだり、日々の暮らしを助ける絵を得意としています。それに対して、我々河鍋は、モノ……かつては妖怪あやかしとも呼ばれ、人に危害を加えるものを追ったり、退治する絵を描くことが多いです」

 みどりが使っていた二匹の子犬は、そういった絵だったのだ。だが、絵にしては現実味を帯びた姿かたちをしていた。その疑問に気づいたかのように、クモが、にかっと笑った。

「妹の絵は、絵らしくなかっだだろう」

「はい。生きた犬の姿かたちそのままでした」

「だろうな。こいつの才覚は特別だ。絵画の鬼……画鬼がきを自称していた親父が、特に目をかけていた、画鬼の子よ」

「兄上」

 みどりがクモをたしなめ、クモは肩をすくめた。

 帝都の絵が動くという話をしてくれたのも、河鍋暁斎という画家の絵が凄いという話をしてくれたのも、洸次郎の兄、新三郎だった。

 兄も動く絵を見たのだろうか。河鍋暁斎の絵を見たのだろうか。河鍋暁斎に会ったのだろうか。もう兄の話を聞くことは、かなわない。兄はもう、この世にはいない。昨年の冬、珍しく雪が降った日に、兄は命を断ったのだ。

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