第6話

 みどり、と名乗った女は、ぱん、と手を叩き、腰を浮かせた。

「丁度良いです。夕餉にしましょう」

 気がつけば少し涼しくなり、障子が開け放たれて見える空は、夕暮れの色がにじみ始めている。

 みどりは軽い足取りで部屋を出た。

 残された洸次郎は、みどりが「兄上」と呼んでいた男とふたりきりになった。互いに名乗っていない。

「あの」

「クモで良い」

 洸次郎が口を開くと、男が遮った。

「あいつが、みどりと名乗ったんだ。俺はクモで良い」

 「みどり」も「クモ」も本名ではないのだろうと洸次郎は勝手に思ってしまった。

 クモと名乗った男は重そうに腰を上げ、襖の向こうのもと居た部屋に戻った。洸次郎に背を向けたが、筆を手にした様子は見えた。

 自分が名乗っていなかったことを思い出し、洸次郎はクモの大きな背中に声をかける。

「俺は洸次郎といいます。上州から来ました」

 クモは筆を置き、洸次郎の方を振り返った。

「だから、上野にいたのか」

「はい。機関車で」

 未だに信じ難い惨事が脳裏に蘇る。自分でも理解できていないあれを説明するのは難しく、理解してもらえるかも怪しい。

 怒鳴り合う村の者達。村を蹂躙するモノ。火に飲まれる村。逃げる洸次郎を、執拗にモノは追ってくる。

 今もあの場にいるような錯覚をおぼえ、息が詰まりそうになる。

「何も言うな」

 クモは部屋を片づけて襖を閉めた。

「俺も上野で、あのモノを見た。人に憑いてお前さんを襲おうとした、モノをな。俺達がモノを退治できなくて、本当に、すまない」

 クモは手をついて洸次郎に頭を下げた。

「よして下さい! 俺が何もかんげえずに帝都ここまで来ちまったもんだから、一緒に連れてきちまって、それで」

「いやいや、俺達が悪かった。この通り」

「クモさん!」

「兄上!」

 みどりが膳を持って来ていた。

「私達、絵師の話もした方が良いでしょうけど、まずはご飯にしましょう。お話はその後です」

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