第5話

 微睡んでいる間に、雨音が止み、蛙が鳴いていた。

 寝返りを打つと額の手拭いが落ち、腹の虫が鳴いた。飯の炊ける匂いがする。今日が何日なのか、ここがどこなのか、洸次郎にはわからない。

「起きてはなりませぬ……! ではなく、起きられまするか!」

 手をついて起きようとすると、女が慌ただしく駆けつけた。兄上、と声を張るが、助っ人は来ない。女に肩を支えられ、洸次郎は重い体を起こした。まだ頭はふらふらするが、意識ははっきりしている。しばらくすると、支えられずとも猫背で胡座をかける程度になった。

「お飲み下さいませ」

 女は椀を差し出してくれた。椀を受け取り、水を一気に飲んでしまう。乾いた咽喉が潤い、喋れるようになった。

「……すみません。助けてもらったみたいで」

「礼には及びませぬ。たまたま近くにおりましたもので」

 墨の匂いのする女は、隣の襖を大きく開け放った。

「兄上!」

「うおお! 驚かすな!」

 床に膝をついて何かを書いて……否、描いていた男は、顔を上げると洸次郎に気づいた。

「お前さん、起きられたのか!」

 男は筆を置き、洸次郎の近くまでにじり寄る。

「休ましてもらって、本当にすみません」

「いやいや、構わねえよ。たまたま近くにいただけだ」

 男は深く息を吐き、安堵の表情を浮かべた。心配されていたのだと思うと、洸次郎は申し訳ない気持ちになった。



 ふと手元を見ると、二匹の子犬がいた。物音も鳴き声も無かった。

熊川こもがい祥瑞しょんずい

 女が子犬に声をかける。子犬は女の膝元にすり寄り、何か申したそうに尾を振る。女は頷き、口を真一文字に結んだ。

「わかりました。ありがとう。戻りなさい」

 女は筆を手にし、宙に文字を書いた。ひとつは「暁」、もうひとつは「翠」。筆をくるりと回し持ち手の部分を、判を押すように宙に浮いた文字に押し付けた。

 宙に浮いた「暁翠」の字に、篆刻。刹那、二匹の子犬が消えた。

「どうだった」

 男に訊かれ、女は首を横に振った

「熊川も祥瑞も、モノを見失ってしまったようです」

「俺のからすも飛ばそうか」

「兄上はお仕事がありますでしょう。納期が近いのですから、専念なさいませ」

 目の前の出来事とふたりの会話に、洸次郎はついてゆけない。

 女は筆を帯の間に無理やり差し、腰を浮かせた。懐には、小さな帳面がちらりと見えた。女が上野で帳面と筆を携えていたことを、洸次郎は思い出した。

「申し遅れました。わたくしは、みどり。しがない絵描きをしております。翡翠かわせみみどりと覚えて下さいませ」

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