第4話

 お蚕が桑の葉を食う音だと思っていたが、よくよく耳をすませば、雨音だった。

 横たえられた体が熱い。唾を飲んだら、乾いた咽喉がひりひりと痛んだ。

 誰かがにじり寄ってくる。上野で包丁を向けられた様が脳裏をよぎり、洸次郎は目を開けた。

 男が洸次郎を覗き込んでいる。

「おお、ようやくお目覚めなすったか」

 太く、張りのある、余裕ぶった声が降ってきた。

 死にたくない一心で、洸次郎は体を起こした。頭がくらくらする。

 倒れそうになった刹那、しっかりと抱えられた。

「おい、お前さん。急に起きちゃいけねえぜ」

 男の手が洸次郎の額に触れる。

「まだ熱があるじゃねえか。無理すんな」

 体が重く、力が入らない。男に身を預けているうちに、懐かしい匂いが鼻先をかすめた。何の匂いなのか考えている間に、洸次郎は再び布団に横たえられた。

 匂いの正体がわかりそうになった刹那。

「はうぅ……っ!」

 女の謎の声が、それを遮った。男が一瞬動きを止める。

「兄上が二十九にもなって妻帯なさらぬのは、そういうことでございましたか……!」

 聞き覚えのある女の声だ。

「ものぐさの兄上が、なぜその殿御を抱かれたのか疑問に思うてならなかったのですが、今し方がゆきましてございます! この妹めは、兄上を応援致します! しかしながら、弱ったところを襲うのはいかがなものかと」

 何言ってるのかちょっとよくわからない。洸次郎は目を開けて女の姿を確認する。

 女は、上野で帳面と筆を携えて洸次郎を助けてくれた者であった。袴姿ではなく簡素な着物に、たすきをかけている。

 一方、男は洸次郎から離れ、布団の傍らで胡座をかき、頭を掻いた。

「妹よ、腐った頭で誤解するのも大概にしやがれ。俺はこの男を抱いてねえし、襲ってもいねえよ。お前がこいつを引きずって行こうとしやがったから、おんぶしただけだ。この熱で鹿島屋まで連れて行くのは酷だろうから、ここに泊めてやっただけさ」

「兄上のその優しさが、罪なのでございますよお……」

 女も洸次郎の枕元に膝をつく。水で冷やされた手拭いが額に当てられた。

 懐かしい匂いが、また鼻を掠めた。はっきりとわかった。墨の匂いだ。高山社で読み書きから学んでいた頃、自分の名前を練習して鼻に馴染んだ、乾く前の墨汁の匂いだ。

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