第3話

 お蚕が桑の葉を食う音だ。生活に沁み込んで何とも思わなくなった音は、洸次郎の半生を回顧させる。



 生まれも育ちも上州小塚村。夏場は稲、冬場は麦の、乾いた穂がからっ風に揺れていた。お蚕の餌である桑がそこらに植えられている以外に、特別な農作物は無い。武州の深谷では、藍染めの原料を加工して玉にした藍玉というものをつくっているらしいが、上州にその習慣は無い。

 洸次郎は、小塚村の養蚕農家、折茂おりも家の次男として生まれた。姉や弟妹もいたらしいが、夭折したと両親から聞いた。

 折茂の家の中で浮いた存在だったのが、十五歳上の兄、新三郎しんざぶろうだった。

 長男は夭折しやすい、という迷信を信じて「一」に似て異なる「三」の字を与えられた新三郎は、洸次郎が生まれたときには出奔しており、約十年後にふらりと村に帰ってきた。

 新三郎は実家には寄りつかず、村の外れに窯をつくり、作陶を始めた。村の者の噂によると、新三郎はどこかの窯元を訪ねて弟子入りし、破門になって帰ってきたのだとか。

 洸次郎は両親から、新三郎のところには行くな、ときつく言われた。しかし、人の目を盗んで新三郎に会いに行った。

 洸次郎が新三郎の真似をして小さな手で土を練り、ろくろでいびつな形の器をつくると、新三郎は目を細めて穏やかに微笑んだ。左で箸を持つ癖が抜けず、土を練るときやろくろを回すときも左回りになる洸次郎を、新三郎は叱らずに口数が少ないながらも褒めた。洸次郎の拙い器に釉薬をかけ、窯で焼成し、自分の作品よりも嬉しそうに扱った。

 窯に薪をくべながら、新三郎はぽつりぽつりと話をしてくれた。賑やかな帝都のこと、河鍋暁斎という画家の絵が凄いということ、京都のこと、蓮月尼に会えなくて悔しかったこと、異人に会ったこと、他所の土地の食事、海を見たこと。特に、帝都で動く絵を見たという話は何回も聞いた。洸次郎は信じられなかったが、物静かな兄が何度も熱弁するので、本当なのだろうと思うようになっていた。

 洸次郎が一番好きだった話は、武州保木野村の出身であるはなわ保己一ほきいち検校けんぎょうの話であった。幼い頃に光を失った保己一は、江戸に出て学問を学び、やがて「群書類従ぐんしょるいじゅう」の編纂や「令義解りょうのぎげ」の改訂に尽力した。

 新三郎はどの話も、お前も好きなことを学べよ、と締めくくった。それはできない、と思いながらも、洸次郎は頷いた。兄のせいで学問ができないと責める気は無かった。自分は学問が苦手だと洸次郎は自覚していた。それよりも、兄の隣で作陶する方が好きだった。こんなこと、誰にも言えず、知られるわけにもゆかないが。



 次男でありながら、長男のように育てられてきた洸次郎。そろそろ嫁をもらって家を継ぐ頃だと言われていた時期に、養蚕の巡回指導をしていた高山組が地元上州に帰ってきた。創立者、高山長五郎が高山社を設立した場所が小塚村の近くであったため、洸次郎は高山社で最新の養蚕を学んだ。両親からは反対されたが、好きなことを学べ、という兄の言葉に洸次郎は背中を押された。

 父の方針で小学校に通わなかった洸次郎は、最初は自分の名前を書くのが精一杯だった。全国各地から養蚕を学びに来る人の中で、洸次郎は落ちこぼれだった。それでも、読み書きができることで自分の世界が広がった気がした。



 しびれを切らした両親に半ば強引に縁談を決められたのは、洸次郎が二十歳になる頃だった。子ができず追い出されたという、同い年の女と結婚した。妻となった女は、人前では俯いてばかりだったが、洸次郎とふたりきりになると、安堵したように顔を綻ばせた。まるで小さな花が咲いたような笑みは、洸次郎の顔も綻ばせた。

 洸次郎は妻にだけは、新三郎のところに出入りしていることを話した。この頃、新三郎は鬱々としていることが多かったが、妻に様子を見に行かせることはしなかった。事が起こってしまっては大変だと洸次郎は判断した。

 やがて、妻は子を授かった。生まれてきたのは男の子だった。あまりの可愛さに、洸次郎は長男に愛太郎あいたろうと名付けた。ふざけた名だと周囲から反対されたが、洸次郎の耳には入らなかった。

 愛太郎がすくすく育つにつれて、妻か物陰で泣く様子をたびたび目にするようになった。妻は洸次郎に見られていたことに気づいていないようで、洸次郎から声をかけることは躊躇した。

 このまま家族で養蚕農家として暮らすのだと思っていた矢先、二度の惨事に見舞われた。

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