第2話

熊川こもがい祥瑞しょんずい

 それが茶道具の名である熊川こもがい祥瑞しょんずいに聞こえたのは、良くも悪くも、今は亡き兄のお蔭だ。

 雑踏の中から跳び出してきたのは、二匹の子犬だ。片や果敢にも包丁に跳びつき、片や勢いよく男に体当たりする。

 包丁は洸次郎の手元すれすれに落ち、平衡を崩した男は尻餅をついた。いてえ、と言葉をこぼした男から、黒い影が出てくる。

 モノだ。村で見た、村から洸次郎を追いかけてきた、あの禍々しいモノだ。

熊川こもがい祥瑞しょんずい、あの影を追いなさい」

 先程の声が子犬二匹に命令する。二匹は黒い影を追い、姿を消してしまった。

 近くにいた人々は、呆気にとられたように子犬を見ていたが、誰かが「河鍋さんのとこの絵だね」と言うと、他の人も納得したように頷いてこの場から離れていった。

 入れ替りに現れたのは、帳面と筆を携えた女だった。

「そこの御人ごじん! ご無事でございますか!」

 先程の声の主だ。着古した藍色の着物に袴。髪は簡単にかんざしでまとめている。歳の頃は、二十歳を少々過ぎた頃か。娘盛りよりも落ち着いて見える。

「あのモノは、わたくしの絵に追わせております。ご安心なさいませ。今あなた様を貶めるものは何もおりませぬ」

 女が差し伸べた手を取ろうとして、洸次郎は亡き妻を思い出してしまった。美人ではないが気立ての良い妻。その性格が誤解を招き、悲劇を招いてしまった。

 涙で目がかすむ。頭がくらくらしてきた。女が何か叫ぶが、言葉が頭に入らない。女とは別の大きな手に支えられ、洸次郎は意識を手放した。

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