されど、かわせみは嗤えず 〜文明開花・暁翠贋記〜

紺藤 香純

第一章 画鬼の子

第1話

 ――ここぁ、お江戸えどだったんじゃねんきゃ。



 洸次郎こうじろうの感嘆は、蒸気機関車の轟音に掻き消された。雲ひとつない蒼い空には、黒い煙が入道雲のように立ちのぼる。

 かつては江戸と呼ばれた東の都は、二十年余り経った今、帝都ていとと呼称を変え、くにのモノを大いに受け入れている。機関車だって、そのひとつだ。洸次郎が故郷、上州を出たときは、中山道を通って帝都まで走るつもりだったが、熊谷の手前で力尽き、機関車に頼ってしまった。

 線路を敷く計画を知ったとき、洸次郎の暮らす小塚村の住人は、こぞって反対した。田畑やお蚕に悪影響が出ると信じて疑わなかったからだ。もくもく立ち昇る黒い煙は害がありそうだが、馬よりも速く移動できる機関車は、便利この上ない。知り合いに借りた金銭は一気に減ってしまったが。

 齢二十五なのに迷子の子どものように、人の波に揉まれて上野の駅舎を出た。村から逃げることばかり頭にあり、機関車を降りた後のことは考えていなかった。

 深い緑色の葉が滴るように茂る木の下でしゃがみ込むと、立ち上がれなくなってしまった。脳裏に浮かぶのは、逃げる直前に村で起こった惨事。真夏の白昼夢であってほしいと何度も願った。

 記憶を掻き消さんと、頭を横に振り、その頭上に落ちた翳りに気づいておもてを上げた。その刹那、息がひゅっと鳴った。首を締められたわけでもないのに、咽喉が潰れる錯覚をおぼえた。

 農家の出である洸次郎に似た身なりをした男が、洸次郎を見下ろしている。にわかに振り上げた利き手に握られていたのは、包丁だ。

 全身が粟立あわだった。

 殺される。

 村から洸次郎を追いかけてきた、あのモノに。

 目をつむることも忘れて包丁の煌めきを見つめる洸次郎の耳に、雑踏の中から澄んだ声が聞こえた。

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