昼極へ

惑星グロー、植民歴157年3周期末


 九時岬を越えたところでふいに雨が上がり、見上げた雲の切れ目から巨大な太陽が顔を出した。

 いつものように、真っ赤だ。炭火の色だ。雲も海面も、何もかもが夕焼けの色に染められている。仰角およそ四十五度から降り注ぐ陽射しは目に弱く、楽に直視できる。

 そして肌には真夏のように暑い。

 ここに来てから5年になるが、低温の太陽が中天に静止していることには未だに慣れない。ただ、最近はラランド21185を太陽と呼べるようになってきたし、かつて太陽と呼んでいた恒星を単にソルと呼ぶようになってきた。


 我らが太陽、ラランド21185はソルの半分よりやや軽い。その明るさはソルの1パーセントにも及ばないし、熱量も7パーセントしかない。

 しかしこの惑星グローは太陽に近い軌道を巡っている。その小さな太陽が、地球から見上げたソルの倍くらいの大きさに見えるほど近い軌道を。

 そのおかげで、地球がソルから得る熱量と、グローが太陽から受けている熱量はほぼ等しい。

 熱量のほとんどは赤外線で、九時海域を通過中の今でも明るさは地球の夜明けや夕暮と大差ない。グローに来た直後は戸惑ったが、目はとっくに慣れた。

 しかし太陽が昇りも沈みもしない事には未だに戸惑うことがある。

 太陽に近い軌道を巡るグローの自転は何億年も昔に公転と同期し、ずっと半面を太陽に向けたままで軌道を巡り続けている。太陽に向いているのと反対の面、夜半球ではその名の通り永遠に夜が続く。

 そして今居る昼半球は永遠の昼だ。夜半球との境界線である六時線と十八時線は永遠に黎明または夕暮が続き、その他の場所は経度に応じた太陽時が永遠に続く。

 黎明海岸に住まいを定めた最初の入植者たちはこの惑星をサンライズ・グローと命名したそうだ。

 今では単にグローと呼ぶのは五十年ほど前に午後地域や夜半球選出の議員の意見が通ったかららしい。

 船は西風と潮流に乗って、九時線を横切ったところ。だから、太陽は東空の中ほどに静止している。船が東に走るにつれて太陽の下に入り、正午線に到達したところで太陽の真下に入る。

 そう、真下に。船は赤道上を東航している。このまま正午線まで進むことが出来れば赤道との交点、昼極に史上初めて到達する。太陽の真下に位置するその点まで生きて到達できたら、真上を見上げて笑うつもりだ。

 俺はそのためにグローへ来た。


                *


 俺は地球生まれの地球育ちだ。それも運が良い方の6割の一人だった。つまり誰でも真面目に勉強さえすればそれなりの仕事に就けて、定年まで能力相応に働きさえすれば安定した老後が手に入る国に生まれた。今でも両親には感謝している。もう二度と会うことは無いけれども。

 大それた望みさえ持たなければ幸福を確実に得られるはずだったのだ。

 けれども、今振り返れば俺は10歳を過ぎるころにはそれを自ら拒否していたのだ。

 幼い頃の俺のヒーローはスポーツ選手でもなければ深宇宙探査船の乗員たちでもなかった。

 アムンゼン、ヒラリーとテンジン、スコット、マロリー、ウエムラ。

 それにピカール、アームストロング、ディアギレフ。


 最初に読んだのが誰の伝記だったのかは思い出せない。より強く覚えているのは羨望だ。エベレストの山頂にも南極点にも、マリアナ海溝の底にもホテルがある今の地球に、冒険など残っていない。ソル系には人跡未踏の場所はまだいくらでも残っているが、わざわざ人間が行くまでも無い小惑星ばかりだ。


 俺が生まれる10年前に木星の大赤斑からリボーが生還した--金星を気球で一周に成功した、あのディアギレフも帰ってこれなかった大赤斑から--のがソル系最後の冒険と言って良いだろう。まぁ、理論上はソルそのものの有人探査が残っているが流石に無茶だ。

 他の星系に目を向け始めたのは、上級学校に進む前だったと思う。



 もっと壮大な冒険はある。

 国連宇宙開発委員会はいつでも、いまでも、どこでも、たとえばこの星系でも深宇宙探査船の乗員を募集している。


 片道100光年を超える探査航行を亜光速で行うそれらの船に志願する物好きは少ない。船内時間は最長でも10年だが、航行を終えて帰還したときにソル系では数百年が過ぎている。給与が地球時間を基準にして支払われるとは言っても、船出は家族や知人との永遠の離別だ。

 その点、近隣の殖民星系への移民団に志願するなら時間の離別は長くても数十年で済む。フラワーポットなら4.3年、ここグローなら8.21年だ。

 もし今からソル系へ帰ると、船出から20数年を経た故郷へと戻ることが出来る。

 このくらいの別離なら、昔からいくらでも例がある。田舎町からニューヨークや東京へ出て20年そこら帰省しなかった人間は珍しくもない。20世紀や22世紀の戦争後には、半世紀ぶりの里帰りなんて事例が大量にあったはずだ。


                 *


 スポンサーに恵まれ、準備は最良の予想よりもハイペースで進んだ。

 最初の挑戦までわずか5年とは予想外だった。

 最低でも10年は要ると思っていたのだが。達成後の人生はちょっと退屈なものになりそうだ。


 が、それは甘かった。


                 *


 海洋は惑星グロー表面の六割を覆い、昼極では摂氏七十度近くまで熱せられて大量の水蒸気を大気中に放出している。立ち上る水蒸気は大気中で凝結して分厚い雲となって渦巻き、昼極嵐と呼ばれる半径二千kmのサイクロンを形成している。

 サイクロンの中心は揺れ動きつつ昼極に留まり、猛烈な風を吹かせ雷雨を降らせている。

 気象衛星を用いた観測によれば、その平均降水量は毎秒四ミリから五ミリ。毎時で言えば一万五千ミリから一万八千ミリになる。つまり地球上で最大規模のサイクロンが一日掛けて注ぐ量の水が、昼極では五分で降り注ぐと言われている。

 もちろん、昼極嵐は低気圧だ。惑星表面の空気全てが昼極嵐の中心へと吸い取られてゆく。中心へ、昼極へ到達した空気は熱と水蒸気を与えられて成層圏へと吹き上がり、夜半球をめがけて亜音速で吹き出す。

 空気は熱と雨を撒き散らして冷えながら夜半球へと到達し、表面へと沈むと徐々に加速しながら昼半球へと戻ってくる。

 それがこの惑星の気候だ。永遠に真夜中が続く夜極でも気温が摂氏二十度を切ることは無い。その一方で水蒸気の循環は空気循環よりも範囲が狭い。

 大半は昼極嵐の下に降る。とは言え、九時線を越えたこのあたりにちぎれ飛んでくる雨雲でさえも地球なら降水量の記録を更新するほど分厚い。

 グロー人も地球人と同様に毎時一ミリくらいの降雨があれば傘を開くし、その数倍になれば外出を控える。俺もそうだ。


 さきほど九時線岬の南を過ぎた時点でも西風の風速は八メートルあった。


                  *


「俺……失礼、私の手記が地球に売れるのですか?」

「ええ。あなたの手記が地球に届けば、それに見合った情報作品が送られて来ます。それをグローで販売するわけです」

「つまり、19年後に支払いがあるわけですか」

「いえ、あなたには手記の代価を現金で支払いますよ。その見返りを我々が得るのは19年後になりますが」

「……いささか投機的なお仕事に聞こえますが。19年後に来た商品をあなたが売ったとして、あなたが私から手記を買う以上の金にならなかったら?」

「私が実際に扱うのは、19年後に届く交換商品の販売権なのですよ。19年後に何らかの商品を入手する権利を記した権利書、これが私とあなたに現金をもたらすわけです。実際にどんなものが届くかは、私は関心を持ちません」

 そこでエージェントは肩をすくめた。

「もちろん権利を購入した顧客が19年待ってゴミを掴む可能性はありますが、そのリスクは定量化できます。顧客はそのリスク分だけ安く権利を買いますし、私はあなたから手記を安く買います。全人類が地球上で暮らしていたころから変わらない取り引きに過ぎません。単に時間が長くなっただけで」

 エージェントはそこで言葉を切り、付け加えた。

「そもそも、あなたがソル系からここに来る時にもこのシステムの恩恵を受けているはずですよ。星間船乗りたちがあなたを運んだ代価、あなたがソル系で星間船に乗る時に払った料金は今はまだソル系の銀行に預けられたままのはずです。船乗りたちはその預金引き出し権利書をソル系の市場で売って、グローまでの航行に必要な物資やサービスを買って出航してきたわけです。権利書を買った人は、あなたのサインが入った到着確認書が別の船で届くのを待つわけですね」

「私が払った額は星間船を動かすにはぜんぜん足りない……失礼、ちと面食らったものですから」

 俺がこの星まで乗ってきた星間船『ヒュベルボレイオス』の定員は50万人。低温睡眠に入る直前に聞いた船内アナウンスは、満員だと言っていたはずだ。エージェントはそれを省いて説明しただけだ。


「まあなんにせよ。数値化できるもので売り買いできないものはないんです」

 エージェントは笑った。

 追従笑いを浮かべる。

 最後の挑戦に必要な金を出してくれるのは、もうこの怪しげな男だけなのだ。


                 *


 ラランド21185星系からソル系まで8.21光年。四番目にソル系まで近いこの星系は一番古い入植地だ。

 より正確に言えばトリマンの第一惑星こそが一番古い入植地だが、あの「フラワーポット」が新規移民を受け入れていた年数は短い。

 総人口も下から数えた方が低い。


 この惑星グローは半径三十光年にまで広がる人類世界の中で、地球と火星の次に人口が多い。


 最初の挑戦は失敗した。

 9時岬を過ぎて昼極嵐の縁に掛かったところで撤退したのだ。船が破壊されなかったのは幸運だった。


 次の挑戦はより頑丈な船を作ろうとしたが、丈夫な構造は重く、浮力を確保するためには大きくならざるを得ない。大きくなればなるほど、波と風から受ける力は大きくなる。

 方針転換したのは地球の古い記録を読んでからだ。

 20世紀の戦争では武装した潜水船舶が重要な役割を果たしたと言う。もちろん敵対する陣営はこの脅威を排除するために対抗策を開発し、それは水密構造の爆発物と言うシンプルなものだった。

 水面を行く戦闘艦から投下された爆発物はあらかじめセットされた深度で爆発し、水中に潜む脅威を破壊する。このとき、小型の潜水船舶ほど生残確率が高かったと言う。

 俺の挑戦にも同じことが言える。


 昼極嵐の下、荒れ狂う海水の中で揉まれる時。船体の各所に掛かる力の方向と強さはランダムになる。大きな船ほど、複雑な力を受ける。たとえば船体中央を右に押されるのと同時に舳先と船尾は左に押されると言う風に。

 小さな船になるほど加わる力は均等に近づく。


 大型潜水艦がへし折られるのと同じ爆雷攻撃を受けた小型潜水艦が衝撃波に蹴飛ばされつつ生き残ったように、小さな船であるほど昼極嵐に耐える可能性が高まる。


 たとえばピンポン球を昼極嵐の下に投げ込んでも、しばらくは破壊されないはずだ。

 スポンサーから出資を集める上でも、安く作れる小さい船の方が有利だ。問題は、生きて帰ってくるための燃料をどうやって押し込むかに掛かっている。

 往路は昼極嵐が吸い寄せる力を利用することにした。帆船だ。

 帰路は、あちこち駆け回って中古品の小型原子炉を手に入れた。

 しかしこれも失敗した。

 10時群島を過ぎたところでマストが吹き倒される前に俺は撤退を決め、原子炉に過負荷を強いてなんとか生還した。


                  *


 3番目の挑戦、これは俺にとって間違いなく最後の挑戦になる。成功すれば二度と挑むつもりはないし、途中で離脱することも不可能だ。

 往路のみを考えた超小型の帆船で挑む。

 帰路は、気球だ。俺ひとりを成層圏まで吊り上げる、実用最小限の気球を折り畳んだ状態で背負ってゆく。もちろんそんなもので昼極嵐に揉まれたら即座に破壊されてしまう。

 けれども、昼極嵐にも一箇所だけ平穏な場所がある。

 嵐の中心、目だ。


 到達できたら、甲板に出て気球を膨らませる。成層圏までまっすぐ上昇して、あとは吹き飛ばされるだけだ。

 半端な高度までしか上がれなかった場合、乱流の地獄に呑み込まれることになる。




 10時群島の傍をかすめて船は強烈な風に吹き寄せられてゆく。耐圧ガラス窓の隅に群島のひとつが消え去るのを待って、装甲板を閉じる。


 外の景色を肉眼で見るのは、これが最後になるかもしれない。


 外部モニターが空が分厚い雲に覆われたことを示した。


 一様に吹いていた強風が乱れ始めた。

 船は激しく揺れる。


 もうしばらく進めば「海面」と言う言葉が意味を持たない激しい攪拌状態になる。



 三半規管を麻痺させる薬物を静脈に打つ。



 ここからが本番だ。

 俺がヒラリーとテンジン、あるいはアムンゼンと並べるのか。


 それともスコットやマロリー、ウエムラと並ぶことになるのか。




 さあ、行くぞ。

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