第76話 無意味な善意

 俺はこの人に会うのが怖かった。

 なじられるから?

 そうじゃない。


 おそらく翔子さんの旦那さんは、そんなことはしない。

 そんなことをすれば、それは陛下への反逆だから。

 だからそんなことはありえない。


 ……単に、俺の心の問題だ。


 この人に会うと、俺が他人の奥さんに自分の子供を産ませたことの意味を突き付けられる。

 それが恐ろしかったんだ。


 目を合わせるのが怖かった。

 逃げたかったけど……


 必死で、耐えた。


「……藤井大河です」


「妻の久美子です」


 ふたりで、名乗る。

 すると


「……妻からよく聞いてますよ。素晴らしい若者だと」


 そう、彼は言ったんだ。

 この俺に。


 ……一瞬、俺のことを知らないのかと思った。

 そんなこと、あり得ないのに。


「それはどうもありがとうございます」


 頭を下げる。

 そして


「……ご用は何ですか?」


 そんな俺に、彼はそう言って来た。


 ……ここに来る前に、覚悟は決めて来た。

 決めて来たはずなんだ。


 なのに……


 俺は言葉を発する気力を失いかけていた。


 そのときだった。


「……申し訳ありませんが、夫の血を引いたその赤ちゃんを引き渡していただけませんでしょうか?」


 ……思わず、見てしまった。

 自分の妻を。


 久美子がそんなことを言ったんだ。

 はっきりと。堂々と。


 ……自分の子供じゃないだろ!?

 何でキミが言うんだ!?


 俺はそう、声に出さなかったけど、心で叫んでいた。


 ……彼女はまっすぐに、小石川夫妻を見つめていた。


 彼女の言葉に、小石川さん夫婦も驚いていた。


 驚いていたが……


「お断りします」


 旦那さんが即答したんだ。

 その顔は、真顔だった。


「何でですか!?」


 今度は俺が言ってしまった。

 ほぼ衝動的だ。


 納得できなかったから。


 だけど……


「自分の子供だからですが? 他に理由が要りますか?」


 普通だ。

 普通に言っている。


 俺は……理解できなかった。

 俺がこの決断をしたのは、この人のためだったんだ。


 それなのに……!


 だけど。

 彼は続けてこう言ったんだ。


「……別に妻は私を裏切ったわけではないですし。華族の存在理由を身をもって果たしただけ。ならばそれを全面的に認めて支えるのが夫の在り方です」


 夫が無精子症の夫婦の場合、夫の精子の代わりに他人の精子を妻の卵子に人工授精するという医療行為がありますし。

 そう考えれば、別に問題は無いでしょう。

 だから、君が気を遣って奮闘する必要は無いんですよ。


 幸い、この子は女の子なので、顔で私の血を引いていないことを自覚する危険性は低いです。

 だったら、別に良いでしょう。

 ……安心してください。立派な華族の淑女に育つように心を砕きますから。


 そう言って、微笑んでくれた。


「……ああでも、華族だからゴミ焼却場や、火葬場の近くに住まないといけない問題点はあるわね」


 そう、翔子さんが独り言のように、夫の発言を補足して、微笑んだ。


 ……この人たちの精神性……

 俺たちの理解の外だ……


 そう思ったから。


「……失礼しました」


 俺は頭を下げた。

 久美子もそれに倣った。


「君は君の奥さんを大切にしなさい。他人の心配をしている暇は無いはずです」


 退室する寸前に、最後に掛けられた言葉。

 ……ものすごい敗北感を感じた。




「……俺の考えたことって、独りよがりで子供っぽい考えだったのかなぁ?」


 産婦人科を出て。

 その入り口で。


 人がいなかったから、思わず洩らした。


 それに対し


「あなたはあなたで、あの人のために必死で考えた答えでしょ。ただ、それがあの旦那さんには無意味だっただけ」


 俺の背中から、久美子がそう言葉を掛けてきた。


 そして俺に背中から抱き付いて。

 耳元で、こう言ったんだ。


「……前に翔子さんに言われたよね? 結果の出なかった善意は無意味なの?」

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