ソルベ

「――やっぱりだめだ」


 キャンバスに向かって何時間経ったろう。もう日が沈み始めている。アブチャンは我慢強く押し黙っていたが、筆を放り投げた僕を見て、ついにため息をついた。


「アブサンが欲しくなる?」

「酒ならなんでもいい」


 自己嫌悪に飲まれ、自分を忘れてしまいたくなった。酔えば簡単に絵が描けると、悪魔に魂を売ってしまった僕は、もう絵描きではないのだ。


「自分に価値がないと思うのはやめて」

「描けなきゃ何の意味もない」



 頭を抱え、うつむいた。どれくらいこうしていただろう。影が動く気配を感じ、見れば筆をひろったアブチャンがパレットの絵具を混ぜていた。赤、黄、青、ぐるぐる混ざり合う色が、少しずつ緑味をおびはじめる。唾が出て、喉が鳴った。アブチャンが僕の顔を見る。出来上がったこっくりした黄緑は、爽やかな香りすら感じさせた。


「ひと筆、色を見せてくれない?」


 僕に筆を持たせると、ふわりと飛び上がってキャンバスのふちに座った。


 アブチャンがうなずく。とても素直に、まっ白なキャンバスに、一本の線が現れた。


 驚いた。震える指は、きっと禁断症状じゃない。

 柔らかい葉のような緑色は、海のように優しく、森のように冷たかった。懐かしさの向こう側に、後悔や絶望を思い出して胸が苦しくなるような、そんな不思議な色だった。


「続きはまた明日」


 アブチャンはそう言って毛布を引っ張ってきてくれた。僕はなぜかこの小さな女の子に逆らえない。言われるがまま床に寝そべり、しばらくキャンバスの緑色を見上げていた。僕が見れば、緑色も僕を見ているような気がしてほっとした。アブチャンはいつの間にかいなくなっている。明日の朝も、この絵は未完成なのだと思うと安心した。僕が描き進めなければ永遠に完成しない絵だ。僕の絵だ、と思った。



 ――夢を見た。暗闇に浮かぶ二つの目。透き通る緑色の瞳は、真っ直ぐに僕を見すえている。


「僕に何か伝えたい?」


 まばたきをすると、角膜が触れ合うほど近くに迫っていた。視界いっぱいに広がる緑色が、包み込むように僕を見ていた――



 翌朝もアブチャンの姿はなかった。昨日のキャンバスは同じ姿のままそこにある。あの緑色は乾いてもなおみずみずしさを保ち、そこだけ時が止まっているかのようだった。ふと気が向き、足もとに転がる絵具を拾った。キャンバスの真ん中に引いた緑色の縦一直線が、植物のくきに見えたのだ。混じり気のない赤色を、キャンバスに直接しぼった。円を描くように指で伸ばし、それを何度か繰り返した。最中、自分が馬鹿みたいだと思った。笑いさえ込み上げた。この落書きとも呼べない幼稚な行為が、なぜだか無性に楽しかった。


「ガーベラ?」


 いつの間にか現れたアブチャンが話しかける。


「そう見えるならガーベラでいいよ」

「素敵ね」


 驚いて、振り向いた。くちの端だけでニッと笑うアブチャンがいた。


「これ素敵かな」

「ええ。情熱的な感じがする」


 鼻がツンとして、目頭が熱くなった。

 小さな頃から絵が好きだった。ささやかな賞賛を宝物にして描き続けた。大勢に褒められなくてもよかった。たったひとりに、認めてもらえれば。


 筆が持てなくなったのは、愛するミラが僕を見なくなり、描く理由を失ったからだ。ゴール直前のランナーのように、ブザービートを突き抜けるプレイヤーのように、描ききるには僕を見てくれる『目』が必要だった。

 ミラの美しいグリーンの瞳は、アブサンの色によく似ていたと気が付いた。そして今、再びそれを手に入れたのだ。


「アブチャン」

「うん?」

「少しひとりにしてくれないかな」


 嬉しそうに微笑み、窓からひらひらと出て行った。


 新しいキャンバスに向き合う。そして手元には無限の色がある。


 ミラの瞳がまぶたにうつった。その顔をもう一度笑わせてみたいと、僕は筆を取った。


 ああ、どんな世界で喜ばそう。


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