ポワソン

「そうと決まれば……」


 そう言ってアブチャンはぐるりと部屋を見渡した。どこもかしこも絵具だらけの、画材と酒しかないしみったれたアトリエだ。ああ、きっと酒を捨てられる、そう思って胸が痛んだ。安定剤を取り上げられるような、最終手段を封じられるような、漠然とした不安に飲み込まれ、空っぽの胃がキリリと痛んだ。せめてキッチンの奧にしまいこんだお気に入りのスコッチだけは見付からないことを祈った。


「お散歩に出かけましょう」

「えっ」

「いい天気よ」


 アブチャンは僕の綿シャツの胸ポケットに収まった。大人しくしているものかと思ったら、車の箱乗りのように身を乗り出し、「しゅっぱつ」と叫んだ。


 強引な妖精に急かされあたふたと飛び出し、太陽を背にして当てもなく歩いた。用事もないのに外に出るのは久しぶりだった。昔は散歩が好きで、コーヒースタンドに立ち寄ったり、毎日どこかしら変化する公園の自然を眺めたりしていた。あの頃は、隣にはいつも……。


 悲しみを振り切るようにペースを上げた。アブチャンは何も言わない。

 途中、妻の車椅子を押す夫とすれ違った。木もれ日が揺れる歩道を歩きながら、老夫婦は幸せそうに見えた。走り回る子供をたしなめる母親の声や、テラスで語らう若者の談笑も聞こえる。この多幸な街にいて、不幸なのは、おそらく僕ひとりだった。

 さあっと血の気が下がり、膝に手をついた。冷や汗がぬるつき、目まいも感じる。震える指先を握りしめ、ベンチを探して顔を上げると、朝なのに薄暗く涼しそうなパブに気が付いた。


 滋養に軽い酒を一杯もらうだけだという言い訳が、僕の足を前に進ませた。今日は、もう、十分頑張った。なまった身体にしてはよく歩いた。一休みしたらアトリエに戻って眠ろうと決め、吸い込まれるようにパブに近付いた。



「あれだわ」


 天国のドアノブを掴もうとした瞬間、アブチャンが突然声を出し、彼女の存在を忘れていた僕ははっとして手を引っ込めた。散歩は断酒への一歩のはずだった。とがめられると思い、おそるおそるポケットを見ると、アブチャンは隣接する本屋の立て看板に張られたポスターを指差してた。



『鬼才ヴィクトル・ローマン

 新作公開 三日後』



 美術が特別なものではなく、ごく身近に存在するこの街では、絵の個展やらバイオリンの発表会やらは一般人の娯楽として日常に溶け込んでいる。展示会なら画廊だけでなく、本屋、靴屋、パン屋やカフェや病院まで、協力的な店主と物理的なスペースがあれば、どこでも気軽に開催できる。


「ローマン……。知らないな」


 若い才能は、生き急ぐように名前だけがせわしなく入れ替わっていく。日常だ。


「彼の絵を盗みましょう」

「はあ?」


 思わず耳に手を当てそうになった。アブチャンは自分の言葉にうなずいている。


「三日後に公開なら、搬入は明後日の夜ね。外から見張って、人がいなくなったら忍び込みましょう」

「待ってくれ、どうして僕が人の作品を盗まなくちゃいけないんだ」

「彼の絵を盗んで、あなたの作品とすり替えるのよ。どちらも新作なら誰も気付きっこないわ。お酒を飲まずに仕上げた絵が評価されれば自信が付く。これでアルコールとはおさらばよ」

「そんな無茶苦茶な」

「酒を断つなら依頼品ではだめ。あなたが心から描きたいと思わなければ。上手くいけば、出て行ったミラもあなたを見直すはずよ」

「でも、人の作品とすり替えるだなんて」

「はっきりしないわねえ。あなた、今まで、何か一つでも自分の力でやり遂げたことはある? どんな手を使ってでも守りたいと思った人は? 恋人に捨てられ、仲介人に搾取され、果ては酒に溺れて死ぬ。そんな人生でいいの?」

「む、無理だよ。盗みもしたくないし、僕は飲まなければ絵が描けない」

「じゃあ『借りる』。展示二日目の深夜に返しましょう。制作はアタシがサポートする。こう見えて感性の妖精よ。だてに芸術家に愛されてきたわけじゃないわ」

「うう」

「ローマンの絵がすり替わったと知れれば新聞に載るかも。それが素晴らしい絵なら尚更よ。ミラはあなたの新作だと気付くでしょうね。長いブランクを抜け、見事よみがえったあなたを見て、彼女はどう思うかしら」

「……本当に僕を見直すだろうか」

「間違いないわね」


 アブチャンはくふふと笑い、イタズラをする前の子供のような顔になった。やる気満々のアブチャンに急かされ、きびすを返し、アトリエに戻った。何かが始まる気がしたが、僕の気分は少しも上がらない。ただ、パブに寄りたい気持ちは、すっかりなくなっていた。


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