ポタージュ

「――さーん……カジさーん」


 開けたままの窓から朝陽が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。僕を呼ぶ声さえなければ爽やかな朝だと言えた。声の主は依頼品を取りに来たクロードだ。ノックは控えめながらも粘り強く、さっさと出てこいという意思を感じさせる。ドアを壊される前に玄関に向かう。寝起きでふらついたが体調は悪くない。ただ、なにか夢を見ていたような気がする。


「おはようございます」

「絵は?」

「出来てます」


 ドアのすき間から蛇のように上がり込み、仕上がりを確認すると慣れた手つきで梱包した。褒め言葉は初対面で言い尽くしたらしく、今は何も言われない。実はアートより金が好きなクロードとは、ビジネスライクな関係が続いている。


「次も大ぐち?」

「はい。細かい仕事は受けられません」

「もったいないと思うけどな。まあ君、ミラがいないとスケジュール管理出来ないもんね。また気長な金持ちを見付けてくるさ」


 ちょっとしたイラストの方が需要があるらしい。けれど、短時間で次から次へと描き続ける終わりの見えない作業に、今の僕は耐えられない。筆を止めたらまた描けなくなる、そういう強迫観念が僕を眠りから遠ざけ、更にアルコールに走らせるのだ。その結果、納期が押しに押し、結局抱えきれなくなってしまう。一枚描いたら一段落というゴールがあり、なおかつ酒に溺れるゆとりがある仕事しか受けられなかった。


 クロードは絵を抱え、約束の金を置いて出て行った。これで次の仕事が入るまでは、ミラを想って静かに過ごせる。


 ほこりっぽい毛布を掴み、もう一眠りしようと包まった。薄目をして、意識が遠のく浮遊感を味わっていると、少女が僕の顔をひょいとのぞき込んだ。


「うわあ!」

「おはよう」

「なんだ!」

「アブチャンよん」


 昨日のことがフラッシュバックした。


「一体……」

「朝、シャワーを浴びてと言ったでしょ。顔を洗って、シャキッとして。話はそれから」


 子供が大人の真似をするように、腰に手を当てあごをしゃくった。

 混乱した僕は素直になってしまい、毛布をはい出てバスルームに向かった。何日ぶりの風呂だろう。夢よ覚めよと祈りながら、熱いシャワーを浴びた。垢も絵具もすっかり落ち、僕から色水が出なくなったころ、体内に蓄積していたアルコールが抜けたと感じた。

 僕は今、しらふだ。つまりこれから目にする光景が現実だ。心してバスルームを出る。いつもと変わらない、僕のアトリエだ。しかしひとつだけ間違いがある。ジンのボトルのキャップの上に、小さな女の子が座っている。足を組み、未完成の絵を見ている。妖精だ。


「あら、いい男になったわね」

「君は一体……」

「あなた、このままじゃ死ぬわよ」

「えっ」

「次の仕事で行き詰まったあなたはまた酒に逃げ、吐しゃ物をのどに詰まらせて窒息死する」

「な、なんだって」

「でも安心して、アタシはあなたを助けにきたの」


 物騒なことを言うそれは、跳ぶように立ち上がり、マジシャンのように両手を広げた。


「かつて! アブサマが見殺しにしてきた芸術家は数知れず! ゴッホの事件は知ってるでしょう? アブサンは芸術家たちの感性を研ぎ澄まし、たったひとくちで魅了した。しかし! いたずらなアブサマは彼らを誘惑し、時に悪夢を見せ、果ては破滅させた。それで生まれた作品の価値は否定しない。でも、人類の損失だわ」

「アブサマって誰?」

「早い話がご先祖よ。アブサンに依存した芸術家が死に続ければ、いずれ製造販売禁止にされてしまう。緑の悪魔と罵られた聖酒の汚名を晴らすべく、アタシがやってきたってわけ」

「アブサンって誰?」

「酒の名前に決まってるでしょう」


 あくまでアブサンは酒らしい。この子はアルコールが呼び寄せた幻覚だろうか。それとも僕が生み出したイマジナリーフレンドの一種だろうか。どちらにしても、僕は酒と名がついていれば手当たり次第飲んでしまう節操なしだ。ワイン、ウイスキー、ビール、なんでも飲む。もちろんリキュールも飲むが、特別アブサンに依存しているつもりはなかった。見ればボトルの中身もほとんど減っていない。


「気付いてないでしょうけど、さっきクロードが持っていった絵は、アブサンを飲んで描いたのよ。と、いうかあなた、大抵バーボンから飲み始めて、最後にはアブサンに落ち着いてるわよ」

「でも、アブサン、そんなに減ってないよ」

「そりゃあクロードが来るたび新品とすり替えてるんだもの。あなたは立派なアブサニストよ」

「ちっとも気付かなかった」

「そういう酒なのよ」


 そう言って悲しそうに眉を下げた。女優気質らしいアブチャンは、今度は真面目な顔になり、羽を広げてふわりと飛んだ。そして僕の肩にとまり、そっと耳もとで囁いた。


「アブサンの未来は、あなたに懸かってる」


 死にかけの絵描きを救い、アブサンの無実を証明したいということだ。けれど、僕は飲まずには描けない。残念だが、死ぬ運命にはあらがえないらしい。


「大丈夫。きっと自分に勝てるから」


 やけにきっぱりと言い張るアブチャンは、顔も大きさも全然似ていないのに、なぜか優しかった頃のミラと重なった。


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