ヴィヤンドゥ
最高傑作が出来た。
一滴も飲まず描き上げた僕に、アブチャンは一番欲しい言葉をくれた。
これを見せれば、出て行ったミラもきっと戻ってくるだろう。
明日の夜、僕はローマンの絵を盗む。
「アーユーレディ?」
月が僕らを見ている。アブチャンはニヒルに笑い、変ななまりの英語でささやいた。
日没まで何もせずアトリエに引きこもっていた。完成した絵をながめていると、どこか物足りないような気がして手を加えたくなったが、「この絵はこれで完璧よ」というアブチャンの言葉に押しとどめられ、昨日のままになっている。
今日、フィバスがうちに来なかったのは幸運だった。ノックの習慣がない男に上がり込まれたらこの絵について色々聞かれるし、僕のことだから「今夜ローマンの新作を盗むんだ」と聞かれなくとも吐いてしまいそうだった。正直、まだ、僕ひとりでは抱えきれないことなのだ。ミラに見せたいという思いと、盗みの罪悪感が、気まぐれな天秤のように僕の中で揺れていた。
「あっ」
路地に隠れながら本屋を見ていた。店主の男が店に鍵をかけたのが一時間前。しばらく動きはなかったが、スペアキーを借りたらしいローマンが、ブルーシートのかかった大きな荷物をカゴ車に入れて持ってきた。街灯は男のシルエットを浮かび上がらせるだけで顔までは見えないが、すらりとしていて動きはスマートだ。都会的で垢抜けた雰囲気が漂っている。
「ずいぶん大きいキャンバスね」
「一体なんの絵だろう」
「世界平和かしら」
あきれてアブチャンを見ると、思いのほか真面目な顔をしていた。妖精の笑いは、センスが難しい。
搬入を終えたローマンが空のカゴ車を引いて出てきた。
アブチャンは僕の胸ポケットからさっと飛び立ち、ひらひらとドアのすき間に吸い込まれていった。羽ばたくたびに舞う鱗粉は光っていて神秘的だが、夜の中では目立たない。妖精に侵入を許したとはつゆ知らず、外側から施錠し、何度かドアノブを引いて防犯を確認すると、ローマンは来た道を戻っていった。
僕は自分の絵を抱え、本屋に向かって走った。ノックするとすぐに鍵が開き、中でアブチャンと合流した。
「チャーリーズ・アブチャンズね」
「キャッチミーイフユーキャン」
「馬鹿なこと言ってないで早く始めるわよ」
店のガラス窓にカーテンはなく、照明は付けられない。本棚の間を進み、店の奥、展示会がなければ利用者の休憩所になっているスペースに、それはあった。ブルーシートはまだかかったままだ。
「近くで見ると、より大きいわね」
「これは抱えて持ち出せないよ」
僕のアトリエのドアくらいある。むしろ廃品のドアに絵を描いた作品かもしれない。
「もうっ、根性見せなさいよ」
「そんなものを持ち合わせていれば、アル中の絵描きなんかになってないよ」
自分の言葉にむっとして、つい声が大きくなった。
「アルコールは克服したでしょう。これはアブサンを飲まなくても描ける、ということの証明じゃない。明日の朝には話題になる、あなたは全てを取り戻す。さあ、やるわよ」
半ばやけくそで巨大なキャンバスを掴み、壁に固定されたフックごと引きはがした。カツンと何かが落ちる音が響いてハッとする。遠くからパトカーのサイレンが聞こえるような気がしてくる。ぐらぐらと動くようになったキャンバスを本棚に立てかけ、汗をぬぐい、体制を立て直した。幸運だったのは、大きさの割りに重さはない。
両手を目いっぱい伸ばし、絵を掴む。アブチャンに誘導されながらドアに向かってよろよろと進むと、床に引きずれたブルーシートを踏んでしまった。
「危ない!」
アブチャンの悲鳴は騒音にかき消された。僕は転んだ拍子に床と巨大キャンバスのあいだに指を挟み、涙がにじんだ。
「アーティスト! 商売道具は大切にして!」
「いたた」
手をさすりながら起き上がった。ブルーシートが外れ、月明かりが絵を浮かび上がらせている。そこに描かれていたのは……。
「――よお。お二人さん」
声の方に振り向く。開け放ったドアに、スマートなシルエットもたれかかっている。
混乱の中、ひとつだけはっきりしていることがある。絵描きは盗人に向かない。
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