芽生える愛

――大王様を愛せるのは貴女だけだということを、ゆめゆめお忘れなきよう

 

 薫瑛の言葉を反芻しながら、恵菜は一人自室に引きこもり、布団にくるまっていた。胎児のように身体を丸めて微動だにしないまま考え込む。


 ヨミのことは、正直好ましく思っていた。好きかどうかとまで聞かれるとよく分からないが、優しくて誠実な人柄は安心感を与えたし、気遣いができて大切にしてくれる。冥界も思ったより悪いところではないし、慣れたら楽しく過ごせそうな予感はしていた。


 だが、薫瑛の話を聞いて少し尻込みしてしまった。何人もの妻に拒絶されて先立たれ、その絶望と孤独は恵菜が思っているよりもずっと深く彼の心に根を張っているのかもしれない。

 

 自分なんかに彼を愛することができるのだろうか。ウェディングドレスを着れると聞いて、割とここまで勢いできてしまったけれど、あまりに軽く結婚を受けすぎたのだろうか。彼が注いでくれる愛情の分だけ、自分も彼に想いを返すことができるのだろうか。


 思い悩みうぅんと唸っていた時だった、そうっと障子が開けられる。

 

「エナ、気分はどうだ?先ほどから姿が見えぬが……。」

「あ、えっと……うん、平気です!」


 顔を覗かせたのはヨミだった。彼は気遣わしげな表情を見せた後、控えめな口調でこう切り出した。


「少し、外に散歩に出ぬか?閉じこもりきりでも気分が塞ぐだろうて」

「散歩?外に出ていいんですか?」

「あぁ、余が一緒であれば問題はない。景色の良い場所があるのだ、見に行こう」


 薫瑛から冥燐殿の外には出るなと口酸っぱく言われていたため躊躇したが、冥王であるヨミが言うならいいだろう。ろくにこの建物から出たことがなく、外への好奇心があったのも手伝って、恵菜は彼の提案を受けた。





 柔らかな風が心地良い。冥界は一年を通して過ごしやすい気温のようで、特別冷え込んだり酷暑になったりすることはないらしい。風が頬を撫でるのを感じながら、恵菜はヨミに連れられて見晴らしの良い丘に来ていた。


「わぁ……!綺麗!」


 恵菜は着ていた黒のガウンを翻し歩いて行くと、目の前の景色に見入った。見渡す限り草原が広がっており、さらさらと流れる小川の近くにはたくさんの花が咲いている。色味の薄い花たちは派手さはないが可憐で愛らしい。空から降り注ぐ波打つような光を浴びながら恵菜は嬉しそうに深呼吸した。ヨミはそんな彼女を心底愛おしそうに見つめている。


「冥界にもこんな、草花がたくさんあるんですね!死後の世界って聞いてたから、てっきり植物は枯れ果てているのかと」

「ふふ、そうだな、冥界は色味の強い自然物が少ないものだから、派手な色の植物はないが……とは言っても美しいものはある。まぁ、染料を確保するのに苦労するから、悩ましいところではあるが」


 ヨミは嬉しそうに口を開いた。冥界に生を受けてよりこの世界をおさめるべく王としての責務をまっとうしているのだ、当たり前だが、やはり彼は冥界を愛しているようだった。話すのが得意な方ではないと言いつつも、恵菜がこの世界のことを尋ねると、それはそれは嬉しそうにたくさんのことを教えてくれる。無表情だと冷たくすら見えるその完璧な美貌が、冥界のこととなるとほころんで温度をもつ様は、十分に恵菜を楽しませた。


「うむ、やはりそなたは美しく華やかだな、このような瀟洒な花もよう似合う。髪飾りをたくさん作らせよう」

「えっ、ちょっとこれ摘んじゃって大丈夫なんですか!?」

「うん?構わぬ、手折った花はこの世界で枯れた後、現世でまた新たに芽吹く。まぁ、みだりに詰んではまずかろうから、基本的には禁じているが、余が一輪摘むくらいなら構わぬ」


 ヨミがためらいもなく薄紫の綺麗な花を摘んで恵菜の髪に挿すものだから、驚いて恵菜はそう言い募った。どうやら魂を生まれ変わらせるにも数合わせが必要ということで、自由に伐採したり摘み取ったりすることは禁じているが、ヨミは冥王という特権で構わず摘んでしまったらしい。恐るべし冥王パワーであった。


 この世のものとは思えないほど、いや、事実この世のものではないが、ここまで美しい顔をした男に花を贈られて口説かれるのは初めての経験で、恵菜はばくばくとうるさい心臓の音に必死で耐えていた。花を贈られるなんて知り合って間もない並の男にされても寒いが、ヨミがすると格好がついてしまうのが凄いところだ。がらにもなくときめいていると、ヨミがやや不満そうに横目でじっとりと恵菜を見つめながら、口をとがらせた。


「その……エナ、もう堅苦しい言葉遣いはやめぬか。我らは夫婦(めおと)となるのだから。気を使う必要はない」

「あ、そうですね、あ、いや、そう……だね、ヨミ。えへへ……なんか落ち着かないけど。」


 草原に座り込み、二人並んでそんなことを話す。恵菜の服が汚れないようにと、ヨミが着ていた外套を恵菜の尻の下に敷いてくれた。こういう、些細な気遣いが大事にされているようで、すごく嬉しかった。


 一言二言と言葉を交わした後、不意に沈黙が訪れた。沈黙を破ろうと口を開きかけるが、逆にわざとらしい気もして、恵菜は口をつぐむ。ヨミも同じらしかった、何か切り出そうと口を薄く開いたが、結局は閉じる。しばらく風の音と小川の流れる音を聞いた後、結局沈黙を破ったのはヨミの方だった。


「その……やはり、不安か」

「えっ?」

「いや、その……昨日と比べ、元気がないように見えたものでな。見当違いのことを言っていたらすまぬが。……そなたは気丈なおなごだが、やはり異界に嫁ぐのだ、不安に苛まれてもおかしくはない。不安をのぞいてやりたいが、何かこう……逆に困らせているような気もする」

「そ、そんなこと全然ないって!」


 ヨミは悲しげに目を伏せた。長いまつ毛が彼の紅い瞳に濃い影を落とし、その表情からは哀愁が感じられた。

 ヨミが恵菜をとても気遣っていることはこの数日で痛いほど分かっていた。自分も忙しいだろうに執務の間を縫って顔を見に来たり、気晴らしになればとこうやって時間を作って、外に連れ出してもくれる。いつだって丁寧に話を聞いて、真摯に言葉を返してくれるではないか。


「……正直、いつ現世に帰りたいと言われるかと、ひやひやしていた……」

「な、なんで?いや、あの……そんなことは、別に思ってないから。うーん、特に帰る理由もないしなぁ……。親ともさ、そもそもあんまり会ってなかったし。飲み友達とかはいたけど、そこまで惜しむほどの親友とかも思いつかないし……。」

「そ、そうなのか……?」

「うぅ……なんか人望なくて恥ずかしいんだけど……。特に思い残すことは……。」


 それを聞いて、ヨミはそうか、と小さくつぶやいて、なんと返すか困った様子だったが、その顔には分かりやすく安堵が滲んでいた。恵菜は続ける。


「……それに、薫瑛から聞いたんだけど、もし何かあってもさ、年に一回は帰れるんでしょ?……そもそもいつも実家にはお盆くらいしか帰ってなかったから、それでいくとその、里帰りの頻度とかは、これまでと一緒だし」

「……薫瑛が、そう言ったのか?」


 ヨミは低くそう唸ると、恵菜の肩をぐっと掴んで自分の方に向かせた。驚いて顔を上げれば、ただでさえ白い肌から血の気をひかせて、彼はさらに問うた。


「年に一度帰れると?その他には、何を言われた」

「えっ……や、何も。お盆にしか向こうの世界と繋がる扉は開かなくて、それもヨミの許可がいるって。それだけ、なんだけど……。」

「そうか……」


 ヨミは瞬きもせずにじっと恵菜の言葉を聞き、何度か「そうか」と自分を落ち着けるようにつぶやいた後、しばらく黙り込んだ。視線を彷徨わせた後、深く息をつく。そこでふと、強い力で肩を鷲掴んでいたことに気付いたのか、慌てて手を離した。

 

「すまぬ……!痛かったであろう。」

「あ、いや……大丈夫だよ、別にこのくらい」

「そうか……?そなたは余よりもずっと細い、折れてしまいそうで触れるのが不安だ」


 恵菜の肩を優しくさすったあと、そろそろ行こうかと声をかけられ、立ち上がる。薫瑛と話したことが随分と気に掛かったようだが、一体何なのだろう。先ほどの威圧感はなりを潜め、元の温厚な彼に戻ったことに安堵しつつ、恵菜はその隣にくっついた。


「寒くはないか?」

「うん、平気」


 ヨミが外套を恵菜の肩に掛け、優しく抱き寄せながら歩き出す。温めるように背中をさする手のひらの感触に、恵菜は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。彼は体温は低い方なのに、くっついていると安心して、なぜかこちらの体が熱くなった気がするから不思議だ。口を開かずとも伝わってくる彼の優しさに、恵菜はぽつりと言った。


「……なんで、こんなに優しくしてくれるの?」

「……うん?」


 ヨミが目を見開き、困ったような顔で視線をうろうろさせたので、恵菜は言葉を付け加える。


「や、あの……こんな優しくされたこと、ないっていうか。……奥さんになるからって、まだ会って数日なのにさ、こんなに大事にしてくれるなんて、思ってなくて……。」


 最後の言葉は気まずさから尻すぼみになってしまった。こんなことを聞いてどうするんだろう。ヨミはきっと心根が優しいからやっているだけで、きっと他の、それこそこれまで嫁いだ王妃たちにも同じ態度で接したはずだ。それにつきりと胸が痛むのを自覚しつつ、恵菜は自嘲した。こんなことを聞いても彼を困らせるだけだ。

 話題を変えようと口を開きかけた折、ヨミは考え込んでいたのか、非常に悩み抜いた様子でこう言った。


「なぜ……。好いておるから、だろうか」


 何とか他の言葉を探して、結局この言葉しか見つからなかったという、そんな逡巡が感じられた答えだった。彼は続けた。


「いや、これはそなたの欲しい答えではきっとないのだろうな。なぜ……と言われると、余にも分からぬのだが、その……エナのことしかもう、考えられぬのだ。……あぁ、そなたの好きなところを羅列すれば信じられようか?そうだな……思い切りがいいところ、豪快なところ、その、うぇでぃんぐ……どれす?とやらだったか、好きなものに常に懸命であるところも愛らしいが……うぅん、これだけではないな。……あぁ、困った、どんな理由も後付けになってしまう。ただ、たまらなくそなたが愛おしいのだ。迷いなく余の手を取ってくれたあの日から、余はそなたから目が離せぬ」


 ヨミは、これ以上ないくらいに幸福そうな表情を浮かべ恵菜の好きなところを順に言ってみせると、それはそれは美しく破顔した。その視線は、惜しみないくらいの慈愛を乗せて、まっすぐ恵菜に注がれていて。あふれんばかりの恋慕の情を滲ませた声に、恵菜は耳まで熱くなるのを感じ、とっさにうつむいた。

 誠実で温かな言葉が、胸の奥までじんわりと沁みてくる。こんなに愛されたことなんて生まれて初めてで、少し気を抜くと涙で視界が滲んでしまいそうだ。


 嬉しい。すごく嬉しい。

 私は一体、何を恐れていたんだろう?


「エナ……?」


 ヨミの声が心配そうに曇る。様子を窺うような響きに、恵菜は目頭が熱くなるのを誤魔化すように咳払いをして、顔を上げた。きゅ、と袖を掴み引っ張ると、ヨミの整った相貌が驚きに染まる。


「ヨミ、あのね」


――私も好き。

 

背伸びをしてぎゅ、と抱きしめそう言うと、彼は固まって、微動だにしなかった。呼吸も忘れたかのように動かなかった。数秒経った後、彼は声を震わせ、確かめるように恵菜の名前を呼ぶ。


「エナ……本当か?」


 彼は一度身体をそっと離し恵菜と向かい合うと、信じられないものでも見るように彼女の頬を撫で、今度はヨミから優しく抱きしめた。遠慮がちに回した腕に次第に力が入り、ヨミは恵菜の首元に顔をうずめ、強く強く抱きしめた。

 余も愛している、と囁いた彼の頬には、一筋の涙が伝っていた。

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