扉の向こう

 結婚式も直前に迫り、薫瑛もヨミも忙しそうだった。合間の時間に恵菜が退屈していないか顔を覗かせたり、見て楽しむ絵巻やら絵合わせなど暇を潰せるものを持って来てくれたが、すぐに姿を消してしまう。

 自分だけがのんびりしているのは心苦しいので、何か手伝うことはないか尋ねたが、やんわりと断られてしまった。無理に押し切って役に立たなくても逆に迷惑なだけかと思い、結局はあてがわれた部屋に引きこもっている。


 といってもずっと部屋の中にいるのも億劫で、この建物内であれば外に出ても良いと言われたため、散歩がてら部屋から出てみたのだった。

 特にあてもなく歩き回っていた時、長く伸びる板張りの廊下に、点々と白い花びらが落ちているのに気づく。まるで道標のように、ずっと向こうにまで花弁の跡は続いていた。鼻腔をくすぐる匂いに、ぐらりと脳の芯が揺れる。麻薬のように甘ったるくて強い匂いに思考を支配され、頭はろくにまわらなくて、恵菜はふらふらと目の前の花びらをたどって歩き始めた。


 どのくらい歩いたのか。着いた先は大きな観音開きの扉の前だった。確かここは、前に屋敷を案内してもらっていた時、ヨミが慌てた様子で無理に恵菜を引き離した場所だ。ぼんやりした頭でふとそれを思い出した。


 だが以前と違うのは、かんぬきがかけられ厳重に閉じられていた扉が、今は開け放たれていることだ。白い花びらは部屋の中に点々と続いており、その奥は黒々とした闇に覆われて何も見えない。恵菜は誘われるように甘い匂いの立ち込めるその部屋へ足を踏み入れた。




 部屋の中に入るとさらに、甘ったるい濃厚な匂いが濃くなる。花の匂いで誤魔化されてはいるが、光が当たらず風通しが悪いのか、じめっとしてどこか湿っぽい匂いもする。ひやりと冷気が身体を包み、体感ではあるが広い部屋であることが分かった。暗闇を歩いているとじきに目が慣れてきて、ぼんやりと奥にろうそくの光が見え、あたりの様子を浮かび上がらせている。


 ぎし、と板が軋む音を響かせながら明かりの灯る部屋の奥へと近づく。そこで見たものに心臓が嫌な音を立てた。


 壁一面を覆うくらいの大きな石板がそこにはあって、どこの言葉かは分からないが、びっしりと文字が刻まれていた。ずらりと並んだ文字列は規則正しく配置されていて、まるで何かの名前を彫っているかのようだ。甘ったるい匂いもここからしているようだった。石板の前に祭壇のような台が設置され、そこに白い花が活けられた花瓶と、燭台が置かれている。そして異様だったのは、その台に乗り切らないくらいの大量の料理だった。


――まるで、お供物みたいな。


 恵菜はぶるりと身を震わせる。この空間は一体何なのか、どうしてヨミはここから恵菜を遠ざけようとしたのだろうか、やっぱり入ってはまずいような場所なのか。この石板に彫られた字は、一体何なのか。


「ここにいらっしゃいましたか」


 背後から突然声がして、恵菜はびくりと身を跳ねさせ振り向いた。聞き慣れた声だった。扉の外からの光が逆光になって、表情が見えないが、彼は……薫瑛は、笑っているようだった。その影を長く伸ばしながら、彼はコツコツと足音を響かせ恵菜に近づいてくる。


「あぁ、いけないな……扉が開いていたんですね、お花を替える途中だったんです。申し訳ありません、エナ様がお越しになるとは」

「あっ……私こそ、ごめん。勝手に入っちゃって……」

「いいえ、エナ様は王妃になられるのです、ここはすでにあなた様の城も同然。お好きな時にお好きなところで過ごされていっこうに構わないのですよ。」


 新しい花を花瓶に活けはじめた薫瑛に、恵菜はしばらく視線をうろうろさせながら黙りこみ、逡巡した後で、思い切って尋ねてみた。


「あの……ここ、何の部屋か聞いてもいいのかな……?言っちゃまずいようなら、全然、いいんだけど……。」

「とんでもない。エナ様が知りたいとお望みであれば、何でもお答えいたします。」


 薫瑛は何でもないことのように言った。まるで恵菜がここへ来ることなど分かっていて、最初からそのつもりだったかのようにも思えた。


「……冥王が代替わりし、現在の大王様がご即位して千年。その間に迎えた王妃は全員こちらの世界に馴染めず、お亡くなりになりました。その数、五十二。……いや、冥界に"死"は存在しませんので、魂が衰弱し、消失したと言った方が正しいでしょうか。……この石板に刻まれているのは、今は亡き王妃たちの名前です。ここは、大王様が彼女たちを悼むために作られた場所なのですよ」


 恵菜は息を詰めると、指の先が白くなるくらいにぎゅっと握りしめた。かたかたと手先が震える。息が浅くなり、喉の奥からはひゅうひゅうと乾いた呼吸音が漏れるばかりだった。瞬きも忘れてその石板をじっと見つめる。五十二人。環境に馴染めないと言っても、それだけ立て続けに亡くなるなんて尋常ではない。一体何があったのか。

 恵菜の疑問を感じ取ったのか、薫瑛はまた口を開いた。

 

「エナ様もご存知の通り、冥王は冥婚の風習にならって妻を娶るのですが……。これまでの王妃様は、無理にこの世界に連れられたことで、ことごとく心を病まれまして。冥界の食べ物も気味悪がって口にせず、家族に会いたいと泣き喚いて暴れては大王様を罵り、自らを傷つけることを繰り返し…… 。じきに魂が衰弱し、亡くなられたのです。」


 薫瑛は不気味なくらい淡々と、抑揚のない声で言った。そこには彼女たちへの哀悼の意は一切ない、むしろ憤りすらこもっているような気がして。彼はなおも続ける。


「娶ったばかりのおなごが亡くなられるたびに、大王様も大層心を病まれました。いくらひたむきに愛そうとしても誰もその愛を受け入れず、拒絶され罵られてばかり。どのおなごも、最期には大王様に呪詛の言葉を吐いて死んでいかれまして。」


 薫瑛は冷めた目で石板を一瞥した後、恵菜へその視線を向けた。そして完璧な笑みを形作る。


「エナ様だけなのですよ、この千年で自ら望んで大王様のもとへ嫁がれる方は。いえ、この先も他に現れることはないでしょう。あなた様の存在が、大王様にとってどれだけ救いだったか……」


 薫瑛は恍惚とした表情で、まるで謳うように言葉を紡いだ。


「先代の冥王様も、真の愛など得られなかった。娶ったおなごに強い呪術をかけ、ただ夫を愛するだけの傀儡とし、お世継ぎである大王様をこさえたと聞いております。まぁ、負担の大きな術ゆえ、奥方のお心がすぐに壊れてしまったと聞きますが。ですが、大王様は慈悲深くお優しいお方。そのような不義理はしたくないのだそうです。特に、初めて自分を受け入れてくださったエナ様には、なおのこと。」


 鋭い視線が恵菜を射抜く。その目の奥にはどろどろとした、重たい感情の澱みのようなものが見えた。薫瑛は、それはそれは嬉しそうに言った。

 

「貴女だけなのですよ、可能性があるとしたら。千年の孤独に大王様の心はとうに渇き切っておられる。一度エナ様に受け入れられ、これ以上ない歓喜を味わった大王様はもうこれまでには戻れない。次にエナ様に拒絶されたら、きっと大王様のお心は壊れるでしょう。」


 薫瑛の言葉は一つ一つがあり得ないほどの重みをもって恵菜の心をえぐる。重たい鉛がぐっと胸に詰まった感じだ。呼吸が苦しい。浅い息を繰り返していると、耳元に薫瑛の声が落ちる。


「大王様を愛することができるのは貴女だけだということを、ゆめゆめお忘れなきよう。」


 薫瑛の足音が遠ざかっていく中、恵菜はその場から動くことができなかった。心臓が壊れそうなくらいに脈打っている。彼の言葉が頭の中をぐわんぐわんと反響していた。

 私に、そこまでの覚悟があるのだろうか?彼の深い孤独を癒すだけの愛を、気が遠くなるほどの年月をかけて注ぐ。それが、できるのだろうか?あまりにも簡単に彼を受け入れすぎたのではないだろうか?


 みぞおちのあたりが冷えていく感覚と裏腹に、甘ったるい花の芳香がいつまでも鼻腔に絡みついていた。

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