9.美味しいお酒、美味しくないお酒

「ナツさん、大丈夫ですか?」


「大丈夫、大丈夫。ちょっと調子に乗って飲みすぎちゃった」




 意識ははっきりとしている。が、わたしはいつもより酔っているようで真っすぐ歩くことが困難となっていた。それでも気分はふわふわしていてとても良い。先ほどのバーを出て、年下の彼はわたしに肩を貸しながら寄り添って歩いてくれている。




「まったく……送り狼、っていうのだってあるんですよ。ほどほどに気を付けてくれないと、心配になります」


「ごめんね。でも、ちょっと休んだらひとりでも帰れたもん」


「もん、じゃないです」




 とあるマンションの一室、自宅の前で、鍵をバッグから取り出して鍵穴へ差し込んだ。カチャ。解錠された扉は、彼の手で開かれた。静まり返る我が家。酷く寂しくて、暗い。


 壁にある電気のスイッチを手探りで探し当てると、廊下の灯りをつける。短い廊下の一番奥、扉は開けっ放し。そこにベッドが見えたのか、彼は靴を脱いで上がり込みわたしをそこまで連れていった。


 ベッドへ座るよう促されるとゆっくり、そこへ腰を下ろす。ハルくんは廊下へと戻り、この部屋の手前にあった横開きの扉の向こうへと消えていく。わたしは上着を床へと脱ぎ捨ててひとつ、息をついた。




「勝手に冷蔵庫開けました。水飲めますか?」


「ああ、うん、ありがとう」




 コップに注がれた水が、喉を潤す。彼は少しだけ辺りを見渡し、遠慮がちに少し距離をとって隣へ腰かけた。わたしの部屋に椅子は無く、あるのはベッドとローテーブル、そして小さな棚のみ。他に座る場所を見いだせなかったのだろう。




「……あの写真は、お母さん?」


「うん。去年ね、病気で亡くなったの」




 小さな棚の上に飾られた写真。その横には供えるように、湯のみと茶菓子。気になったのであろうそれについてはじめは言い淀んでいた様子だったが、問われればそう返さざるを得ない。


 ハルくんは、少し申し訳なさそうに眉を八の字に下げて、しかし何かを考えこんでいるかのようにそこから黙ってしまった。また、静かな空間へと戻ってしまったのが物悲しくて、口をひらくわたし。




「うち、母子家庭で。地元におじいちゃんとおばあちゃんは元気でいるんだけど、生まれた時から父親っていなかったの。見たことないんだ」


「そうだったんですね。……お母さん、ナツさんと瓜二つっていうか、すごいそっくり」


「うん、よく言われる。お母さん童顔だから、よく姉妹に間違われたりもしたよ」


「仲良かったんですね」


「それは、うん。まあ、ふたりきりだったしね」




 母の病気が見つかった時は、どんなに落胆し絶望しただろうか。日に日に弱くなっていく姿を見て、縋りつくように泣いて喚いて、何度も神頼みをした。それでも結局、病気に勝つことは出来なくて。


 神様なんてものは、この世にいないんだ、と。そう思った。そしてわたしは、あれからずっと、ひとりぼっちなのだ。毎日寂しくて寂しくて、たまらない。一年経ったことで少し落ち着きはしたのかもしれないが、それでも。


 お母さんと一緒に過ごしてきたこの家を離れられず、でも、外から帰って来た時の広すぎる寂しい空間が、なによりも嫌いだった。




「……一本だけ飲み直そうかなー。ちょっと休んだら口さみしくなっちゃった」


「え、まだ飲むんですか?」


「そういう気分の日もあるでしょ?」


「……じゃあ、付き合います」


「未成年のハルくんにはあったかいココアを出してあげよう」




 立ち上がるのもうまくいった。思ったよりもわたしはアルコールに強いようだ。彼は、心配そうにこちらを見ていたけれど気にならなかった。キッチンへ向かい、ケトルでお湯を沸かす。冷蔵庫を開けると、発泡酒へと手を伸ばした。


 ふと、食器棚へ目を向ける。母がいつも使っていたマグカップが、わたしを見ていた。あれから一度も使われることなくそこに仕舞われたままのそれが、わたしへ訴えかけてくる。ここから出して、と。


 結局そのマグカップを取り出しそれでココアを作った。湯気が立ち上るマグカップ。母が生きていた時も、こうしてココア、作ってあげたっけな。なんて思い出してしまえば心は震える。




「お待たせ。はい、どうぞ」


「ありがとうございます」




 プシュ、と小気味良い音をたてて缶をあけた。




「お酒って美味しいですか?」


「飲んだこと、ない?」


「未成年に飲んだことない?って聞くのもどうかしてますよ」


「あはは。それはそうかも。そうだなあ、美味しいって感じる時もあるし、そうでない時もあるかな」


「それって例えば、どういう時ですか?」


「落ち込んでる時に飲むお酒は、美味しくはないかな。好きな人と楽しく飲めるお酒は美味しい。……一緒に飲んでる相手とか、その時の気分、気持ちで全然違う気がするなあ」


「じゃあ、今は?」


「美味しく飲めてます」




 そう言うと、ハルくんは嬉しそうに、また小鬼のように目を細めて笑った。

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