5.理由

「どうして。どうして、かあ」



 ほんの数秒の沈黙。ほんとうに、ほんの数秒のはずなのに。おかしなほどに長く感じる静寂。外の音がなにも聞こえてこない、まるで世界から隔離されたかのような、この小さな部屋。




「タイプだったんです。ドストライク、ってやつ。僕の理想がそのまま具現化されたみたいな、本当に生きている人なのかなって思うくらいに」


「そ、そうなんだ」


「あ、照れてますね。耳が赤い。かわいい」




 嬉しそうに笑う彼。でも、わたしには、なんとなくだけれどわかった。彼ははぐらかしたのだ。別に理由があるのだ、と。そう思った。そう、彼の瞳が語っていた。でもそれを詮索しようとも思わなかった。




「ありがとうございます。とても光栄です」


「そうおっしゃっていただけるなら良かった。あの時、無理にでも声を掛けないと絶対に後悔する、って思ったんです。でも、ナンパ、なんてやつしたことなかったから、どうしたら良いのかわからなくて」


「……そう」




 慣れている様子、では確かになかったかもしれない。しかしどうだろう。女性経験が乏しい様子も見受けられないのは、彼の物腰の柔らかさからだろうか。たまに揺れる黒髪はふわふわしていて、背が高いのにどこか子犬のよう。そして、醸し出される不思議な雰囲気は、男性としてとても魅力的だと思える。


 ナンパをしたことがないのは、もしかしたら女性側から寄ってくるからなのかも、と自分の中で答えに行きついて納得した。放っておかれるわけがないのだ。どちらかと言えば、なんてのが失礼なくらい、彼は恰好良い部類に入るはずなのだから。




「ハルくんみたいなかっこいい子にそう言ってもらえるなんて、本当に光栄なことだと思う。ありがとう」


「僕、かっこいいですか?」


「かっこいいと思うよ。すっごいモテそう」


「そうでもないですよ」


「謙遜?」


「いえいえ、本当に」




 彼が、わたしの手を、とる。両手で包むようにわたしの左手を、それはそれは優しく。疼く例の腫れ物。そこから熱を帯びて、熱くなる体。痺れる脳みそ。喉が、鼻の奥が、甘く痛む。




「最初に言ったでしょう、お姉さんじゃなくちゃダメなんだ、って。僕の全てがそう言ってる。まるで悲鳴をあげるかのように。奇妙に思うかもしれないけれど、それが本当で、それが全てだから」


「あ」


「……そう」




 脱力する。かろうじて、力なく首を縦に数回、頷く動作をする。彼の右手がわたしの頬を撫でた。今にも気絶してしまいそう。




「連絡先、交換しませんか?」


「する、します」




 彼の体がわたしから離れると、ちりちりとした痺れは薄れて熱だけが体に残る。彼はスマートホンを取り出して、流行りのコミュニケーションツールであるアプリを立ち上げた。わたしも同じようにして、そうしてはじめて、わたしは彼との繋がりを手に入れたのである。


 そうしてそこで、やっと気が付いたのだ。今の時刻に。




「わ、やばっ……わたし、美容院の予約があって。そろそろ行かないと」


「あ、そうだったんだ。ごめんなさい、長く引き止めすぎました」


「ううん、連絡先、ありがとう!」


「こちらこそ、ありがとうざいます。美容院、終わったら良ければ連絡してください」


「うん、わかった。えっと、またね。お邪魔しました」




 来た時とは別の入り口、シェアハウス用の玄関へと案内してくれて、今度はそこから外へ。本屋の入り口とは違い、広い庭を通ってわたしは、不思議な空間から、現実に引き戻されるかのようにして世界へ戻ってきた。


 でも、振り向くと確かにそこには、彼が立っている。立って、わたしに向かって手を振っている。


 わたしは手を振り返すと、美容院へと走り出した。

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