3

 空はやっぱり青く、わずかにうすい雲が見えるだけだった。私が気分を落ち着けようとすると、きっぱりとしたレオの声が聞こえた。


「魔物なんていないよ」


 そのはっきりとした口調に私はほっとした。笑顔になって、レオのほうを見た。


「そうよね。いないわよね」

「ただの大きくて綺麗な湖」

「うん」


 レオも笑った。「もし魔物がいたとしても、俺が食べてしまうから」


 レオにつられて私も笑った。思わずそちらに近づいてしまう。


「すごい! 魔物を食べちゃうんだ!」

「頭からばりばりとね」

「レオ、あなたって勇敢なのね」


 私は楽しい気持ちになって、レオと何かばかげたことを言ってはしゃぎたかった。レオはますます笑って、私に親しみのある視線をよこした。なんだか物理的な距離じゃなくて心の距離も急に縮まった気がして、ドキドキしちゃう。


「勇敢だよ、俺は。メアリを守ることもできる」


 守るって! 私のドキドキがますます大きなものになってしまった。私は嬉しくて、何を言ったらいいかわからなくて、でも、何か言わなければいけないような気がして、とりあえず口を開いた。


「レオ――なんだか子どもみたいね」


 深い意味があったわけじゃないけど。でもレオの無邪気な笑顔を見てるとそう思ったのだ。私の発言にレオは笑い、おどけるような身振りをした。


「そう、俺は子どもなんだよ。俺は子どもで、本当に――」


 レオの笑顔が少し、変わったものになった。瞳に、真剣な色が現れたとでも言えばいいのか。いったん言葉がとぎれ、そして、緑の瞳で、何を考えているかよくわからない瞳で私を見て言った。


「本当に――子どもなんだよ」


 穏やかなほほえみは浮かべていたけれど、もう無邪気な笑顔ではなかった。私は戸惑って、レオの真意をはかりかねて、言葉が見つからなくなっていた。


「そりゃ、僕たちはまだ子どもだよ」


 少しの沈黙の後、ラルフの声がした。なんだかとってつけたような明るい声だった。「僕たちはみんな子どもで、大人という年じゃないよ」


「そ、そうね」


 微妙におかしな感じになった空気を振り払うように、私もぎこちなく笑った。レオも笑った。それはいつものレオの笑い方に戻っていた。


「それで、湖に行くの?」


 ラルフが私に尋ねた。私は答える。


「うん」

「その……怖くない?」

「ただの大きくて綺麗な湖なんでしょ?」

「そうだけど」

「私まだ、その湖を見たことがないの。綺麗なものなら一度見てみたいわ」


 魔物なんていやしない。レオがそう言ってたもの。それに――もし魔物が現れたとしてもレオが守ってくれるもの。




――――




 それは楽しい道中だった。天気は素晴らしいし、緑はやわらかく鮮やかだ。紅葉には間があって、そして暑くも寒くもない季節。


 広がる牧草地に、ヒツジたちの姿が見える。私たちはふざけあって、他愛もない話をして、位置をくるくる変えながら歩いていく。小川があって、その橋を渡る。水はきらめき、魚たちの姿が見える。


 小さな森を通り、途中に咲いてる花に気を取られ、そんな風に歩いていくと……やがて湖に出た。


 視界が開ける。確かに大きな湖だった。その向こうに山並みが見える。湖は静かで、秋の光の中でひっそりと輝いていた。


「本当に綺麗ね」


 私は嬉しくなって言った。たしかに魔物はいないと思う。何も起こらなそうな、平和な湖。ここで本当に悲劇があったの?


 ふいに風が巻き起こった。強い風が私の帽子を揺らす。私は帽子が飛ばないよう抑えた。どうしたんだろう。今までほとんど風などなかったのに。空を見上げると――遠くのほうに灰色の雲が見えた。


 天気が悪くなるのかな。まさか――魔物のせいじゃないよね?


 湖の周りの木々を、ざわざわと風が揺らす。なんとなく私たちは身を寄せ合っていた。


「少し寒くなってきた」


 レオが不快そうに言った。ラルフも浮かない顔をしている。


「雨が降るのかもしれないね。早く屋敷に戻ったほうがいいかも」

「そうね、湖はもう見たのだし――」


 私は湖に視線を向けながら言い、そして言葉を失った。湖が――その表面が、奇妙に揺らめいていた。


 あれは波じゃない。風が起こす自然作用じゃない。そうでなくてあれはあれは――。そう思っている間に、揺らめきがさらに増していく。まるで何か意思でもあるかのように。広がり、形を作り、そして色を変えていく。黒く濁ったものへ、良くない、恐ろしいものへ。


「メアリ!」


 声が聞こえた。レオ? それともラルフ? よくわからなかった。気がつけば私は、すっぽりと闇にのまれていた。




――――




 真っ暗。私は身を震わせた。周りに誰もいないような気がする。レオもラルフも消えてしまって、私は一人、一人ぼっち……。


「レオ! ラルフ!」


 夢中で私は叫んでいた。しだいに、辺りが明るくなっていくように思われた。でも周囲の景色がはっきりとは見えない。闇から乳白色の世界へと変わる。濃い霧の中にいるようだ。


「レオ! ラルフ!」


 もう一度叫んでみる。何が起こったんだろう……。どうして誰もいなくなっちゃったんだろう! 湖は? 湖を取り囲む芝生は? 秋の木々は? あの穏やかな太陽は?

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