第19話 【月下の逃走】
灰のような匂いが鼻の奥をツンと刺激する。
小さなオレンジの灯りだけが部屋を照らす。
当然部屋の隅までその光が行き渡るはずもなく、部屋の中はまるで火の消えた暖炉のように薄暗い。
そんな暗い部屋で、男が一人佇んでいた。
咥えていた煙管を外し、空いた口から煙が吐き出される。
薄い灰色の煙が、暗かった部屋を更に暗くし、ボヤけさせる。
男はこうして自由に考える時間がある時、自身の過去を振り返ったりはしなかった。
振り返る程の経験が無いわけではない。
振り返りたくないわけでもない。
むしろ、男には驚くべき成功の体験が星の数ほどあった。
文字通りのその経歴の星の中には、黄金色に輝くものから、血がこびりついたようにドス黒く赤いものまで様々であったが、それらはほとんどの人間が羨ましがるものであることに違いは無かった。
しかし、男は振り返らない。
男が思考を巡らす先は常に、現在と、そして未来のことだけだった。
男は再度煙管を咥えると、己の肺を煙で満たす。
煙管を咥え煙を吐く。なんのために行なっていると言う訳でもなく、これは昔からの男の習慣だった。
何か考えるべき、考察するべきことが降って湧いた際には、男はこうして一人、部屋に座って煙を吐いた。
それは誰にも犯すことのできない、男一人が安らぎと、そして集中を得るための儀式。
「ボス!!ボス〜!!」
静けさを掻き消すのは、扉を乱暴に叩く音と、自分を呼ぶ声だ。
実に面倒で、それでいて実に腹立たしいが、しかし声の主が誰かを判別できたところで、その者の行為なら、と怒りの温度が少し冷める。
男は咥えていた煙管を外し、肺に溜まっていた煙を吐くと、少し息を吸ってから「入れ」と低く告げた。
扉を叩いた主は、待っていましたとばかりに勢いよく扉を開いた。
新鮮な空気が部屋中を満たすと同時に、部屋の外からの眩しい光が部屋を照らす。
淡いぼんやりとしたオレンジ色の灯りが、その眩い光に当てられて見えなくなる。
暗さが消え、見渡すことができるようになったその室内は、扉を開けた主が己の目を疑うほどの惨劇だった。
「こりゃまた……派手にやりましたねえ」
壁と床は、飛び散った血で元の壁紙がわからぬほど真っ赤に染まっていた。
その血の源泉は、足元に横たわる二人の男女だろう。お互いが抱き合ったまま、血の海の中でひっそりと横たわっている。
男はその死体を見て小さくうめき声を漏らし、この部屋に踏み入れようとしていた右足を宙に浮いたまま止める。
「用はなんだ、ホワイト」
真っ赤な部屋の、その中心の1人用ソファー座る男は、そんな血塗れの部屋だというのに自身はほとんど汚れず座って煙を吐いていた。
全く恐ろしいお爺さんだと、ホワイトと呼ばれた男は舌を巻く。
「バトマンに残してきたイグが、なんかやらかしたらしいんですよぉ。どぉします?こっちでの用は済んでやすし、一度戻ります?」
「イグが…」
男は再度煙管を咥えて煙を吐く。
全く愚息はいつも問題ごとを持ってきて、俺を困らせる。何かあるたびに仕置きをしては、それでは足りないとでも言うように問題を抱えてやってくるのだ。
あれで実力はあるので、そこまでの大きな問題にはなっていない。一度戦力で問題になったのは、誤って死刑執行人に喧嘩を売ったその時だけだった。
故に、イグのいる屋敷が何者かに落とされたということはないだろう。
それこそ執行人レベルの難敵でない限りは。
「なんとなく、嫌な予感がするな」
「ボスもですか?実はおれもそんな気がしてならねぇんです」
男は慎重で、かつ他人を信用することはなかった。人は裏切るものだと思っているし、事実、男も数多の他人を裏切って生きている。
その男が信じるものは、力と己の直感のみだった。
男の直感は良く当たる。男がここまで成功したのには、その直感が大変助けになっていると言っても過言ではないだろう。
その直感が、男に『嫌な予感』を告げている。
「ホワイト、お前が先に行け」
男は煙を吐いてホワイトにそう短く命じた。
ホワイトは少し嫌そうな顔をしながら、渋々といった様子で足を部屋の中に踏み込む。
靴に、ベッタリと赤い血溜まりが触れる。
思わず「おえ」と小さく漏らしてしまうホワイトだが、男はそんな様子を気にも止めず、煙管を右手で弄っていた。
やがてホワイトはやっと、その部屋の窓へと辿り着いた。
人1人が通るには十分なほどの窓は赤いカーテンが閉められており、外からの明かりを遮断していた。
ホワイトはそのカーテンを勢いよく開き、両開きの窓を開放する。
夜の冷たい風が部屋に吹き込み、月明かりがホワイトの背に生えた両翼を照らし出した。
「はぁ……イェス、ボス」
気怠そうにホワイトは、男の命令に対してそう答える。
暗い紫色の、蝙蝠のような両翼は、月明かりを反射して鈍くてらてらと光っている。
男は窓の縁に足を乗せ、そこから屋敷の外へ向かって両足で飛び出した。
地面の存在しない空中への踏み込みは、当然物理法則に従ってホワイトを自由落下へと導く。
そのまま重力によって地面へと激突する、その直前で男が翼を広げた。
強い風を真正面から切る音が聞こえ、そして男の体が重力に逆らって空へと羽ばたいた。
月明かりに照らされた、ホワイトの夜空を羽ばたく影を見送って、男は煙管を再度咥えなおした。
▽▽▽▽▽
「早くここを出ないと、俺たちは全員殺される」
そう告げたトラストの声に、ルミューは驚いた表情で声を上げた。
「じゃあ早く逃げないと!!」
月光が照らす邸宅。
その正面玄関の門前。大きな芝生で彩られた、本来であれば客人を歓迎する庭は、今やその体を成していない。
そこら中に倒れ伏すごろつきやチンピラ、気を失っていない者も、気を失ったふりをして様子を伺っている。
彼らが見守るのは中心の、4人と1匹の言動だった。
その一挙手一投足に耳を貸し、もしや今から自分達が皆殺しにされないだろうかと、恐怖で目を開けることすらできない。
「プリエーレならみんないっぺんに運べるぜ!な?プリエーレ!」
「どうしろと……言うんだ……背中に…しがみつけとでも?」
「ちょっとナイト!あなたは無理して喋らなくて良いのよ!」
ごちゃごちゃと、楽しげに言葉を交わす姿は、襲撃犯にしては異質で、しかしマフィアの友人とは呼べぬほどの暴威を放った。
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。構成員の1人が、目を瞑ったまま考え込む。
4人と1匹の目の前に倒れている男は、このマフィアでも上から数えた方が早い実力者、そんな男でさえ倒されてしまったのだ。
自分たちなんて蚊を潰すよりも容易く殺されてしまうと、そんな想像をして構成員の1人が頭を痛くする。
このままどこかへ去ってしまうまで、なんとか死んだフリでもして誤魔化せば良い。
そう思った矢先、こちらへの足音が鳴った。
芝生を踏む、柔らかい足音。先ほどの4人のうちの1人だろうか。
自分は死んでいる、自分は死んでいると体に言い聞かせ、なんとか死んだふりを続ける。
恐怖で心臓が高鳴る。
そんな心臓の音が相手に聞こえているのではと思い、再び恐怖を覚える。冷や汗が背筋を伝う。その汗粒が、背筋から腰へと落ち来るその時だった。
「ねぇ」
柔らかく、朗らかな女性の声だ。
どうしてか、死んだフリのこちらに気がついているようで、明らかに話しかけられている。
しかし、男は手当たり次第に話しかけているのかも、という一縷の願いに賭けて、その声には返事をしないことに決める。
「ねぇ、あなた」
やはり、確実に自分に話しかけている。自分が起きていると確信があるのだろう。
返事をすべきだろうか。
薄目で声の主の顔をそっと確認する。
こちらを眺める心配そうな顔だ。目鼻立ちが良く、可憐という言葉がよく似合う女性だった。
何となく、無害そうな表情に返事をしても良いかと思える。
そんな男の心情を知ってか知らずか、少女は絆された心に追い討つように声をかけた。
「私たち、籠、っていうのが必要で、ドラゴンに乗るのにそれが無くて困ってるの!あなた、何処にあるか知らないかしら」
そんな、少女の問い掛けに、男は薄めていた目を大きく見開いた。
何と可憐で困った少女だろうか。
年は若い、15、16ほどだろう。おそらくドラゴンに乗るのに籠が必要なことも知らないし、籠がどんなものかも知らない。それに、マフィアの自分に声をかけることがどれほど危険なことなのかも。
今自分が嘘をつき、適当な暗い場所へ連れ込んで仕舞えば犯してしまえる。それ程までに罪が無く、人を信じ過ぎてしまうような少女。
見たところ、少女はそれ程強くないだろう。
男はマフィアの下っ端ではあったが、下っ端同士の喧嘩には自信があった。こんな年端もいかない少女の細腕など、捻って折ってしまうことは容易いだろうと思っていた。
そんな下衆な考えで開いた目が、こちらを困ったように見つめる少女の瞳と合った。
2人の間に風が吹き、少女の髪が靡いた。
少女の目は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
嘘をつくなんて知らない、真っ直ぐで純粋な瞳だった。まるで生まれたての赤子のようにキラキラと光るその目が、こちらを全く疑わないその視線が、男の目を真っ直ぐに貫いた。
お世辞にも、男の人生は楽しいとは言えなかった。良くない家庭環境の中で、盗みや喧嘩をして金を得て、気付けばマフィアの構成員になっていた。そんな人生なのだから、人から向けられる視線はいつも、疑念や恐怖、猜疑心が入り混る、濁って黒い瞳だった。
しかし目の前の少女は、真っ直ぐにこちらを見つめている。恐らく少女はこれから話す一言一句を信じるのだろう。
そう思わせるほど、真っ直ぐで純粋な瞳。
あなたを信じていると、その瞳がそう語り続けていた。
「屋敷の屋上に、若頭が用意してた籠がある。小さいが、4人なら十分なはずだ」
「ほんとに?ありがとう!」
気付けば、正直な情報が口から出ていた。真っ直ぐな瞳を見て、こちらから嘘をつくことに耐えられなかった。なんだ、自分はそれほど悪人ではなかったのかもしれないと、男は1人心の中で思う。
元気良く礼を良い、与えた情報を忘れないようにしながら仲間たちの元へ戻る少女の姿を見て、その「ありがとう」の5文字を男は心の中で深く噛み締めた。
「ねぇ皆聞いて!籠、屋上にあるって!」
ルミューは話し合いをする三人の元へ戻ると、勝ち得た情報を勢いよく紹介した。
親切なマフィアのおじさんが教えてくれたのだと、元気良く話すルミューを見て、ナイトは片膝をついて賛辞をつらつらと並べる。
「流石は……お嬢様……この短時間で……最も必要な情報を……獲得されるとは……」
「ねぇもう良いから、安静にしててほんとに」
「時間も無い。さっさと屋上へ向かうぞ」
ギリギリのナイトの賛辞を途中でやめさせ、ルミュー達は屋上へ向かおうと屋敷に向かって歩を進める。
その時だった。
ぐい、と体が持ち上げられ、宙に浮く感覚がする。地面がどんどん遠くなり、月明かりに当てられた影が芝生に落ちる。
しかしその影は、ルミュー達の背後の巨大な何かの影に飲み込まれる形で見えなくなった。
「何!!飛んでるの!?」
慌てた声で首を上へ向ければ、先ほど地下室から助け出したばかりのドラゴンが空を飛んでいた。ルミュー達は、そのドラゴンの鉤爪に引っ掛けられる形で宙を舞っていたのだ。
今にも落ちそうな不安定な飛行に、思わずルミューは悲鳴をあげてしまう。
ふと隣に目をやれば、同じような形でトラストが青い顔をしていた。
そんな恐怖の遊覧飛行もあっという間で、気付けばルミュー達の靴底に、石造りの床の感触が当たっていた。
「屋上、か?」
トラストが、つんのめる形でドラゴンから離れている。そんなトラストの声に返事をしようとした矢先、ルミューもトラストと同じようにドラゴンの鉤爪から下ろされた。
2人が降りたのを確認して、頭上から誰かが床に降り立つ。その正体はシエルだった。
シエルは先にナイトを抱えて、ドラゴンの背中へと乗り込んでいたのだった。
見れば、担がれたナイトが今にもゲロを漏らしそうな青い表情をしている。可哀想に。
「あれが籠か。豪華なものだな」
いつの間にかトラストが、屋上にある件の籠の方へと向かっていた。
籠、とは乗り物のことを指すらしい。ルミューはトラストの目の前にあるそれを見て、直感的にそう理解した。
小さな戸建ての家ほどの大きさもあるそれは、人が数人入るには十分な大きさだった。
低く潰れた円柱を横に倒したような形に、窓と入り口を付けたような見た目をしたそれは、ルミューが町で何度か見かけた車輪のついた乗り物にそっくりだった。
ただ一つ違うのは、車輪の代わりにドラゴンが持ち上げるための、止まり木のような形をした棒が付いているところだろう。
一目見てわかるその実用性に、ルミューは思わず感嘆の声を上げる。
「色は黒くて赤い……まあ、後で塗り直せば良いよな!!」
シエルの声に応えるように、ドラゴンのプリエーレが小さく唸り声を上げた。
そんな1人と1匹の微笑ましい会話を他所に、トラストが中身の物色を始める。
「やけにしっかりした作りだな。それに……この機能」
「何かあったの?トラスト」
「ああ……いや、マフィアの紋章をどう消すか悩んでいた」
「そんなのは後でで良いだろ!!早く皆籠に乗り込むんだ!!プリエーレが飛びたくてウズウズしてる!!」
シエルは担いでいたナイトを籠の中へ文字通り放り込むと、ルミューとトラストも中へ入るように催促する。
自身はその場から跳び上がり、プリエーレの背中の首に近い場所、いつもの定位置へと座り込んだ。
籠の中は案外広く、数人なら人が寝転がることさえ出来るほどのスペースが用意されていた。
マフィアが移動のために用意していたのだから快適なのは当然だ、とはトラストの言葉だ。
そんな彼は、まるでそこが自分の家かのように早々に寛いでいる。
ナイトを見れば、目を瞑って寝息を立てていた。今日一番頑張ったのだから、後でご褒美をあげても良いかもしれない。
と、ルミューが浸っているそんな考えが、籠が宙に浮くという形で中断される。
ヘソの下が浮くような浮遊感の後、地面と離れた影響で小さく揺れる籠が中のルミュー達にも影響を与える。
窓から見える地上がどんどんと小さくなっていく。
反対に、月は地上に見える時よりも少しだけ大きく見えた。
こうして一行は月明かりの下、マフィア“アザード”の本拠地を後にしたのであった。
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