第十九話:はじめまして
影浦先輩に案内され、たどり着いたのは大きな平屋の一軒家だった。
「さぁ、ここが目的地だ」
「……えっと」
影浦先輩は意気揚々と目的地を指すが、私にはその意図がまるで伝わらなかった。小波先輩も同じ様子で、平屋と影浦先輩とを交互に見比べ、怪訝そうな顔をしている。部長さんだけは「……なるほどね」と、微笑を浮かべていた。
きっと、部長さんにはわかったんだ。影浦先輩がなぜ、私たちをここに連れてきたのかが。
私はもう一度考えてみた。
その平屋は男性の背丈ぐらいの竹垣にぐるっと四方囲われていて、私たちから見えるのは玄関と、ハノ字型に敷かれた瓦屋根。長年雨風にさらされてきたせいか、瓦は色褪せ、玄関にある木彫りの表札には『工藤』という文字が、劣化して少々掠れて掲げられている。
ただ古い、というより、厳かで由緒正しき家柄の人が住む家、という感じだった。住宅街に並ぶような明るく綺麗な家ではないけれど、歴史を共に刻んできた趣を感じさせる立派な家だった。
(もしかして……)
「影浦先輩。工藤さん、という方は先輩の親戚か何かですか?」
「? いいや、うちに工藤って親戚はいないけど」
「じゃ、母方の祖父母の家とか」
「いや、母さんの旧姓は
「じゃあじゃあ、友達の家ですか」
「……すまん、友達の家でも、ないんだ」
最後の回答だけほんの少し返答に間があったが、結果は全部不正解。てっきり、先輩の知人や友人に野良猫事情に詳しい方がいて、その方に相談をしに行くのだと思ったのに。
考えた答えが違い、振り出しに戻ってしまう。
「澄玲ちゃん、ドンマイ!」と部長さんが肩に手を置いて慰める。私はそれに、ちょっとだけムッとして言い返した。
「じゃあ部長さんはわかるんですか、影浦先輩が何でここへ連れて来たか」
「わかるよ」
「なら教えてください」
「それは無理」
「何でですか」
「う~ん、そうだね~。せっかくなら、これまで頑張ってきた影浦くんには一番報われる形でエンディングを迎えて欲しいからかな。勿論、澄玲ちゃんにとってもね」
「私にとっても? それはどういう……」
「おーい、許可もらってきたんでこっちに来てくださーい」
気が付けば、玄関先で家主と思われるおじいさんと話をしていた先輩がこちらに声を掛けてきていた。
「はーい、今行くよ~。ほら、澄玲ちゃんも行こ?」
「え、ちょっと」
追及しようとしたが、部長さんが小波先輩の肩を押してどんどん歩いていってしまったので、私は部長さんの一歩後ろを付いていくように、急いでそのあとを追った。
◇
「…………うそ」
そこには、出会った時と同じように、香箱座りで眠たそうに欠伸を漏らす大福の姿があった。
私たちは玄関の手前にある、竹垣と平屋との間にできた細く狭い道を通り、つきあたりの角を進んだ先、物干しざおに掛けられた洗濯物と数センチ幅の木板が並べられてできた古風な縁側。そして、まさにその縁側の上に大福はいた。
「大福!」
私が思わず飛び出そうとしたところを、影浦先輩は手で制す。
「まて、そう焦るな。まずは手を出してくれ」
私は言われるがまま、とりあえず右手を差し出した。すると先輩は、ポケットから藍染された手毬模様の手拭いを取り出し、何重かに細く折りたたんで、そのまま私の右手にクルっと巻き、軽く結んだ。
「えっと、これは?」
「まあまあ、いいからいいから。じゃあ次はそのまま立っててくれ」
影浦先輩はリュックから、何やら透明な容器を取り出す。
(あれは……霧吹き?)
消毒液を振りかける時に使うようなタイプで、中にはすでに液体が入っているのか、先輩は軽く振って確かめている。
「よし、じゃあシュッシュッっと」
「え? わっ!」
影浦先輩は手にした霧吹きを何度か噴射し、私は咄嗟に顔を隠した。
「これでよし」
「よし、じゃないです。説明してください。今のは何ですか」
何をされたのかわからず問い詰めるが、影浦先輩はいっこうに口を割ろうとしない。「別に害はないし、すぐにわかるから」とそればかり。吹きかけられた箇所を確認してみても別に汚れたわけでもなく、においを嗅いでみたが、特にこれといったにおいもしない。無色無臭、水のようであった。
(ほんとになんだったんだろう……)
「ほら、秋野」
影浦先輩に促されるまま、私は答えをあきらめ、心の準備も半ばにしぶしぶ大福のもとに近づいた。
ゆっくり、ゆっくり、歩幅を小さく、音を立てないように。
ピクっと大福の耳が跳ね、眠気まなこを途端見開き、こちらを見つめてくる。
(いつも見上げてばかりだったから、上から見るのって新鮮かも)
縁側に近づくにつれ姿勢を低くしていき、手を伸ばせば届く距離まで近づいたころには既に、私と大福との目線は同じに並んでいた。
(ど、どうしよう、このあと、どうすれば……)
急接近できた喜びよりを噛みしめる暇もなく、次に何をすればいいかわからずに固まっていると、背後から掠れたような声が混ざり合って聞こえてくる。
(秋野ちゃん、頑張って!)
(秋野、右手だ、右手をゆっくり伸ばせ!)
(澄玲ちゃん、ファイト~)
大福を刺激しないように、風にかき消されそうな声を必死に届けようとしてくれている先輩方の姿が横目に映る。授業参観にきた保護者のようで、それがおかしくって、思わず声が出そうになり必死でこらえた。
(何やってるんだろう、あの人たちは)
そう思った時には、既に身体の緊張も薄れ、いつも通りに腕を伸ばしていた。手拭いの巻かれた右手の甲を、大福の鼻の前あたりに置いて、じっと待つ。
すんすん、と鼻を嗅ぐ音―――
わずかに聞こえる、木板を伝う音―――
「っつ」
次の瞬間、大福は手の甲におでこを押し付けるようにして、何度も、何度も、こすりつけてきた。いままで触れたことのなかった毛の感触が、確かに、手の甲を伝って感じられる。次第に身を寄せ、手の周りをくるくると回るようにして身体を当てこすり、それから何度もざらざらとした舌でなめてくれた。それにつれられて、私は背中あたりを撫でるようにして、触れる。
(はじめて、はじめてこんなに触れさせてくれた)
それからしばらくの間、これまでの片想いを伝えるように、何度も、何度も、大福を撫でた。頭を撫でれば目をつむり、背中を撫でれば伸びあがり、お腹を撫でればくすぐったそうに転がった。そんな大福のひとつひとつの反応が、愛らしくて、愛らしくて……歓喜で崩れ落ちそうな身体を必死で支えた。
その後しばらくして、大福は気まぐれにどこかへ歩き去ってしまったが、私はその背中を、哀愁深い視線で見送ることはしなかった。
手を振って、「またね」とだけ残して。
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